科学と聖書にまつわる随想(7)
「粒子性と波動性」
科学を突き詰めて行くと、とどのつまりは哲学に行きつく、ということについては、真摯な科学者なら誰しも同意するところではないかと思います。もちろん、自然科学は実験事実に基づいて仮説が検証され、最も合理的に事実を説明できるように理論が構築されて行く訳ですが、その理論が私たちの日常生活レベルの直観的な感覚では少々違和感を覚えるようなものになることも多々あります。例えば、量子力学や相対性理論はその典型ではないでしょうか。
1905年にアインシュタインは光電効果を説明するために“光量子仮説”を提唱しました。光は、私たちの日常生活では、干渉や屈折などの波動としての性質しか目に付きませんので、一般には、ある波長を持った波として捉えられます。しかし、光電効果は、物質の表面に光が当たると電子が飛び出す現象で、光が波動であるとだけ考えていたのではこの現象の性質を上手く説明できませんでした。これを解決するためにアインシュタインは、プランクのエネルギー量子の考え方を発展させ、光がその振動数に比例したエネルギーを持つ粒子として振る舞うと考えたのです。光を粒子として捉えた時の粒子を“光子(こうし,photon)”と呼びます。また、その後、ド・ブロイはこれとは逆に、あるエネルギーを持って運動する粒子は、そのエネルギーに見合う振動数の波動としての性質を持つという、“物質波”の概念を導入しました。これらは量子力学の礎を形造っているもので、現在では正しい理論として受け入れられています。つまり、光も粒子(例えば、電子など)も、波動としての性質も粒子としての性質も同時に合わせ持つ、という訳です。
波動は、媒介する物質(媒質)あるいは空間の状態が時間とともに伝わって行く現象であり、物質そのものではありません。一方、粒子というと、実体のある物質としての存在です。私たちの日常生活レベルの世界では、少なくともそう考えるのが自然で、受け入れられる感覚だと思います。しかし、実は、波動と物質とに明確な境界は無いのだ、ということをこれらの理論は主張しています。地図には国境線があるけれども、宇宙から見た地球の姿には国境線は無い、というのと少し似ている気がします。
光は、私たちが放送や情報通信に用いている“電波(電磁波)”とは、波長(振動数)の領域が異なるだけで、その本質は同じです。電磁波は、空間の電界・磁界の状態(振動の様子)が伝播するもので、その電界・磁界の振動の様子にさまざまな“情報”を乗せて運ぶのです。光通信は、まさしく光が情報を運ぶものです。この光(電磁波)という波動が、実は物質という実体のあるものと境目無く繋がっている、ということは、“情報”、言い替えれば“ことば”という目に見えないものから、目に見える実体物ができあがる、ということを示唆していないでしょうか。
聖書において、“光”は、“神(創造主)”を象徴する言葉として随所で用いられています。
また、福音書には、イエス・キリストがペテロなどの三人の弟子を連れて山に登り、祈っておられると光り輝く姿に変貌した、という記事が記されており、ペテロはその手紙の中でそれを目撃したことを証言しています。パウロは、ダマスコへの途上で天からの光に突然打ち倒されて、迫害者から伝道者に180度転換させられました。
神(創造主)は“霊”ですから、私たちが住む世界の物理的な次元とは異なる存在ですが、これらの記述によれば、私たちのこの世界に私たちの認識できる姿で関与される際には、“光”として顕現される、と受け止めることができるでしょう。そして、光の、波動としての性質と粒子としての性質の二重性を考え合わせれば、物理的に実体のある存在として私たちの世界に現れることもありえない話ではないことが頷けるのではないでしょうか。
私たちの目に見える光(可視光)は、波長でいうと約400nm~700nmほどの極狭い範囲に限られています。それでも、私たちは、太陽の光でさえ直視することができません。ましてや神(創造主)の顕現としての光の全てを見て知ることなど、それは到底不可能でしょう。可視光の波長範囲は“有限”ですが、光の波長の範囲は“無限”です。つまり、私たちには見えない光が存在するのです。
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