見出し画像

科学と聖書にまつわる随想(5)

「最初は良かった」

 自然界は急激な変化を嫌いますが、少しずつ徐々に変化していることも確かです。特に、地球温暖化などの気候変動の問題は、この点において近年で最も話題になっている事柄の一つではないでしょうか。では、その変化はどのように起きている、つまり、どこに向かって進んでいるのでしょうか? 

 そのヒントとして、“熱力学第二法則”について考えてみたいと思います。これは“エントロピー増大の法則”とも呼ばれ、孤立系(外界と物質やエネルギーのやり取りをしない独立した系)の内部で起きる変化は、エントロピーが増大する向きの不可逆変化であることを主張しています。“エントロピー”とは、平たく言うと“乱雑さ”と捉えることができます。例えば、中央に仕切りがあって左右2つの部屋に分かれている容器があり、一方の部屋には気体Aが、もう一方には気体Bが満たされているとした場合、中央の仕切りを取り去ると、気体A,気体Bは互いに拡散し、容器全体に気体Aと気体Bが入れ混じった状態に落ち着くのであって、逆に、気体AとBが入れ混じった状態から気体Aと気体Bがそれぞれ左右の部屋に別々に分かれた状態に至ることは無い、ということです。この場合、気体Aは右の部屋、気体Bは左の部屋というように、最初の秩序ある状態から、それぞれが入れ混じった“乱雑さ”の大きな状態への変化したことになります。日常生活でも、初めは整理整頓のできた部屋でも、生活していると段々と部屋の中が乱れてくる、ということは体験的にも頷けることだと思います。

 この法則は、あくまで孤立系においての話であるので、外部と物質やエネルギーのやり取りがある場合は話は別です。例えば、水が冷やされて氷になる時には、水分子がランダムにブラウン運動している液体の状態から、水分子が水素結合して秩序正しく並んだ氷の結晶の状態に変化する訳ですから、“乱雑さ”は減少していることになりますが、この場合は、水の温度を下げる際に水からエネルギーが外部に流出しています。つまり、局所的に見れば、ある部分では“乱雑さ”が減少する向きの変化が起こることもあり得る訳ですが、宇宙全体として見れば(宇宙の果てやその外側のことは誰にも分かりませんが.....)孤立系と考えて良いでしょうから、全体として見ればトータルでは“乱雑さ”は増加する向きに変化が起きているはず、と考えることができます。

 最初は整った状態が段々と乱れてくる変化の例としては、新車が使い込むにつれて段々とボロ車になったり、ピカピカだった金属製品が段々と錆びてきたり、下ろしたての服が着ている間に段々と汚れて皴々になったり、靴が歩くうちに泥にまみれて擦り切れてきたり、というようなことは体験的に理解できることだと思います。これらは皆、“不可逆変化”であって、逆の変化が自然に起きることはありません。ちなみに筆者は、油の酸化による劣化を検出するセンサの開発に携わった経験があります。
https://www.kyb.co.jp/technical_report/data/no66j/editorial.pdf
金属が錆びるのもそうですが、だいたいにおいて“酸化”が進むことは、物の老朽化・劣化に繋がることが多いようです。人の体が老化するのも、体内で活性酸素によって酸化が進むことが一つの大きな要因と言われています。

 これらの変化の中でも、逆の変化が自然に起きることは無いにしても、工夫すればそれが可能な場合もあります。例えば、金属の酸化は、“還元”によって元に戻せる場合があります。近年、水素エネルギーが注目されていますが、水素が燃えて酸素と結びつく(酸化)すると水になる訳ですけれども、水は電気分解によって再び水素と酸素に分離することが可能です。ここで注目すべきは、元に戻すには“知恵”も“エネルギー”も必要だということです。

 熱力学第二法則と並んで、“熱力学第一法則”があります。熱力学第一法則は、エネルギー保存を表す法則で、ある系の内部エネルギーの増分は、外部から供給された熱量から外部に対して為した仕事量を差し引いた値に等しい、ということを主張しています。要するに、収入から支出を差し引いた分が、貯蓄の増加量になるということで、内容は直観的にも頷けるものだと思います。そうすると、最初は秩序のある状態だったものが、時間とともに段々と乱れた状態に変化して行くのですが、仮にそれを元の状態に戻すことができるとして、そのためには“知恵”と“エネルギー”が必要だとするならば、元の“秩序のとれた状態”というのは、“知恵”と“エネルギー”が詰まった状態だった、ということにならないでしょうか?
 聖書の最初の巻「創世記」には、“創造主”が天地創造の業を為された直後では、

「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」

(創世記1:31 )

と記されています。人が創造された直後も、人は“秩序のとれた状態”であって、創造主の“知恵”が詰まった状態であった訳です。創造主の“知恵”は、創造主と人との間の“契約”として表されていたのです。“契約”は“ことば”であり、この“契約”が正常なうちは、人は創造主と“ことば”によって意思疎通ができたのです。ところが、“契約”によって禁じられていた「善悪の知識の木」の実を人が食べてしまったところから、秩序の崩壊が始まってしまいました。創造主が全ての“知恵”の根源であるにも関わらず、善悪を人が自分で判断しようとすることが越権行為なのです。これによって“契約”を破ってしまいました。ここから、自然界における全ての秩序から乱雑へと向かう一方通行の変化が始まりました。造られた存在であるにも関わらず、造り主を忘れて独り歩きしてしまったところが、全ての災いの元であり、これを聖書は“罪”と指摘するのです。

「彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。」 

(ローマ人への手紙1:21)

そして、人が次第に老化して、やがて死に至る生き物に陥ってしまったのです。

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、....」

(ヘブル人への手紙9:27 )

 この世界が創造主によって造られたものであるなら、世界の全てのもの、もちろん私たち自身も、その所有権は創造主にあることになります。にも関わらず、創造主を認めず、私たち自身が自分のものと考えるなら、それは創造主のものを盗んで自分のものにしたことにならないでしょうか。自分のものでないものを自分のものにすることは、まさしく泥棒であって紛れもなく“罪”です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?