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科学と聖書にまつわる随想(4)

「命はどこから?」

 人も含めて生物の体はDNAに込められた“情報”(つまり、創造主と人との間の契約)に基づいて形成されて行く訳ですが、このことは、生物の体の物理的な実体を形成するメカニズムを説明しているに過ぎません。小惑星探査機はやぶさが持ち帰った試料の中から水の痕跡や有機物が見つかった、ということがかつて話題になっていました。生命の起源を探る、というのがこの探査機プロジェクトの目的の一つだそうですが、しかし、発見されたものはあくまで生物の体の構成材料、と言うよりも単に原料と同じ素材の物質ということに過ぎません。生物を鉄でできた機械に例えるとすれば、せいぜい鉄鉱石の欠片が見つかったというレベル、あるいはそれ以下のことでしょう。仮に、原料から材料ができたとしても、その材料を用いて様々な部品を形作り、ある機能を果たす構成物を構築するには“知恵”が必要です。つまり、どの材料をどう組み合わせてどういう形を構成すればよいか、という“情報”を持つ“知恵”の存在が必要です。単なる“駒”が勝手に集まって王将を中心にして陣を成すことはあり得ません。

 さらに、材料が集まってある機能を果たす構成物が出来上がったとしても、それは単なるそういう物体でしかありません。仮に、数種の“駒”が勝手に集まって王将を中心に陣を成したとしても、それらが勝手に動いて将棋を指すことはあり得ません。鉄の部品が集まって機械ができたとしても、適切な動力源が無ければ機械は動きません。

 生物は“命”を持って活動しています。その存在を構成するのは、目に見える物理的な体だけではありません。目に見えない要素が付帯しています。生きている動物と動物の死体の間には明らかな差があります。この差を、私たちは“命”と呼びます。さらに、人間の場合は、目に見えない要素がもっと複雑です。“心”、“精神”、“人格”、などと呼ぶものです。唯物論者はこれらを、全て脳の神経細胞の間の電気信号の動きに過ぎない、と考えます。確かに、現実世界における物理的な現象は脳内の電気信号の動きかもしれませんが、それでは、その電気信号の動きとそれが表す意味とは、どのようにして結びついたのでしょうか? そもそも、“電気”というものも、目には見えない存在です。それにおそらく、“電気”とは何か、という問いにきちんと答えることができる科学者は、誰一人として居ないのではないでしょうか。

 私たちが“創造主”によって造られたものであることを認めるならば、これらの目に見えない要素がどこから来たのか、という問いに解決の糸口を見出すことができます。聖書には次のように記されています。

「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」

(創世記2:7)

聖書で“息”や“風”と訳されている言葉は、“霊”を象徴して使われることがあります。したがって、ここで神(創造主)ご自身が「いのちの息を吹き込まれた」ということは、人が生命を持って動くものとなったとともに、神の霊を宿すものとなった、ということを宣言しています。これは、

「神は人をご自身のかたちとして創造された。」

(創世記1:27)

という記述に呼応しています。現実において明らかに認められる、人と動物との差異が、これで端的に的確に説明されます。

 すなわち、DNAに人体を形成するための“情報”を仕組まれた、“知恵”を持つ存在が“創造主”です。ここで“情報”とは、人を構成する目に見えない要素全てを包括して表現しています。私たちが生きていくために必要な“情報”をDNAに記録することで、“創造主”は私たちと“契約”を結ばれました。

「これは、彼らと結ぶわたしの契約である──主は言われる──。あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、子孫の子孫の口からも、今よりとこしえに離れない──主は言われる。」

(イザヤ書59:21)

この聖句において、「わたしの霊」と「わたしのことば」が同格並列に述べられているところは注目に値します。ちなみに、有名なヨハネの福音書の冒頭は、

「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」

(ヨハネの福音書1:1)

ですし、同4章24節には、「神は霊ですから、....」とあります。

 目に見えない要素の、現実世界における物理的な実体は、脳内の電気信号の動きかもしれません。私たちの日常生活レベルの範囲での電気現象の主役は“電子”です。電子はマイナスの電気を帯びています。物体が持っている電気のことを、電気という荷物を背負っているという意味で“電荷”と呼びます。電子の持つ電荷量のことを“電気素量”または“素電荷”と呼んで記号“$${e}$$”で表し、現代の標準のSI単位系では、基礎物理定数の一つとして、定義値として次の値に定められています。

$$
e = 1.602176634×10^{−19} \hspace{2mm} \rm{C}
$$

電荷量の単位[C]は“クーロン”と読みます。2つの電荷の間に働く力の関係を表す“クーロンの法則”を実験で求めたCoulombの名前に因んでいます。電気素量が電気量の単位の大きさになりますので、私たちの身の回りに存在する電気の量は、全てこの量の整数倍になります(素粒子物理学の分野では$${+2/3 e}$$、$${-1/3 e}$$といった電気量も登場します)。電子は質量が非常に小さく身軽なため、力が加わると簡単に動きます。金属や半導体の中で電子が移動すれば“電流”になりますし、絶縁物の表面に電子がくっつくとマイナスの静電気を帯びることになります。この時、その電子が抜けだした相方はプラスの静電気を帯びることになります。因みに、電子の質量もSI単位系では定義値で、

$$
m = 9.1093837015 ×10^{-31} \hspace{2mm} \rm{kg}
$$

です。
 電子はマイナスの電荷を持っている訳ですが、電子という物理的な実体(残念ながら不確定性原理によって目で見ることはできませんが....)と“電荷”という目に見えない電気の正体とはどのように繋がっているのでしょうか? 電気という荷物を背負っているというイメージだと、本体と荷物に分けられそうな気もしますが、おそらく、電子の実体と電荷は切り離すことができないのだと思います。つまり、もし仮に、電子から電荷を取り去ることができたとすれば、その時、もはや電子は電子でなくなってしまうのではないでしょうか。

 私たちの目に見える肉体と、目に見えない命、心、精神、人格、霊の繋がりも、私たちが生きている間は切り離すことができません。しかし、“死”によって、この繋がりが失われてしまいます。「今よりとこしえに離れない」と主は言われたのに、どうしてそうなってしまったのでしょうか?



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