瑶子さんのおなかが西瓜のようになっていてどう考えてもおかしい。知ってはいたけれど実際目の当たりにするとどう考えてもおかしい。当たり前なのだけれどよくよく考えると当たり前じゃないことが当たり前のように起こっていてこれを経由して全人類いまここにいることを思うと目眩がするほどどう考えてもおかしい。そんなことを思いながらこの長い夏のあいだ、瑶子さんと僕は冷蔵庫でキンキンに冷やした西瓜をむしゃりむしゃりと毎日頬張って、膨らみ続けるおなかを眺めていた。
おなかの西瓜はすでに尾花沢産4Lサイズぐらいにまで成長し、中心には縞模様のような線まで縦に走っている。そこに住まう胎児は日がな一日ボクシング練習よろしく、子宮をサンドバッグのように打ちまくっていた。そのせいでおなかは内側から波打って、その熱量は外からも想像に難くなく、「世界ベビー級チャンピオンにでも挑戦しようとしてるのかもね」だなんて瑶子さんと僕は噂した。トレーニングは深夜0時を過ぎると決まって一層激しさを増し、耐えかねた瑶子さんが夜半に「ひゃっ」と短い悲鳴を上げるたび、横で寝ている僕は目覚めることになる。僕らは毎晩、深夜の猛特訓に付き添うトレーナーのような気分で、つやつやに照り輝くおなかの光沢を眺めていた。
「この人はすでにもう、当たり前に生まれているよね」
僕は瑶子さんにそう言った。
「産まれてから生まれるんじゃないわけで、新生児は生後まもないわけじゃないし、0歳児は0歳じゃないよね」
そんなふうに続けると、なにをそんな当たり前のことを、と瑶子さんは母の貫禄でもって一笑に付した。
おなかのなかの人は独自の言語でこちら側へと対話を試みようとしていた。僕もそれに応えるようにモールス信号みたくおなかを指の腹でトトントントンと小気味よく叩き、言葉にならない言葉を送り続けた。
トトントントンそちらでは時間はどのように流れてますか――
トトントントン光はありますか――
トトントントン毎晩トレーニングで忙しいようですが猛暑の折くれぐれもご自愛ください――
先週病院で耳にした話によると、どうやらこの人は、第一の世界から第二の世界へと移る準備をいそいそと始めているらしい。近からずも遠からず第二の世界で僕ら三人は揃い、晴れて共同生活が始まることになる。そして予定通りに進めば瑶子さんと僕はこの人よりもずっと早くに第二の世界を退出することになる。そうなるとこの人は第二の世界を一人で住むことになるのだけれど、その時にはすでに別の共同生活者がいるのかもしれないし、そうなっていてほしいと自然に思う。
第一の世界があることを知識ではなく実感として知ってから、第二の世界のあとに第三の世界はあるのだろうかと考えるようになった。この世界も子宮のように別の大きな何かに包まれているのだろうか。そこでは僕らみたいに迎えてくれる人はいるのだろうか。願わくば、そこがここよりもずっとチャーミングな世界であればいいのだけれど。
トトントントン一体いつがはじまりでいつがおわりなのですか――
トトントントンねえねえ教えてよ――
トトントントン――
ノックして訊いてみたけれど、「うるせぇ、いまはそれどころじゃねぇんだ」と今日も変わらずトレーニングに勤しんでいるようでボコボコッと内側から乱暴に打ち返してくるだけだった。瑶子さんと僕は甘くて冷えた西瓜を頬張りながら、波打つ西瓜の海をじっと静かに眺めた。
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