見出し画像

貨幣と資本(第11回):第9章 不良債権問題とは何だったのか?

これまではマクロ的な視点から、1990年代以降のバブル崩壊の影響等について見てきた。以下では、よりミクロ的な観点から、特に法制度の側面から「失われた25年」を検証する。そもそも「失われた25年」の直接の原因は何か。筆者の仮説は、第一にバブル崩壊後の不良債権処理に失敗したこと、第二に、その後の貸し渋りや貸し剥がしに見られた金融の機能不全にあるというものである。

9-1. 引き金となった2つの通達

1989年12月26日「証券会社の営業姿勢の適正化及び証券事故の未然防止について」(蔵証第2150号)

1989年12月29日に日経平均株価が38,957円の史上最高値を記録する僅か3日前。同月26日に大蔵省証券局から発出された通達「証券会社の営業姿勢の適正化及び証券事故の未然防止について」(蔵証第2150号)がバブル崩壊の最初の引き金を引いた。

当時、事業会社が余裕資金を株式市場で運用して利益を上げる「財テク」が流行していたが、その運用対象は、特定金銭信託(特金)と指定金外信託(ファントラ)の2つの信託商品だった。特金は、信託銀行に口座を設けた投資家(証券会社の顧客)が自ら運用を指示する一方、ファントラは信託銀行に運用を一任する仕組みである。また、信託銀行を経由せず証券会社に運用を一任する「営業特金」、別名「取引一任勘定」もあった。いずれも法人税基本通達により、既に保有している持合い株式等とは分離して簿価での計上が認められていたことから、株式市場が高騰する中、特金・ファントラ、そして営業特金を買い足していく上で法人税法上のメリットもある。標記通達発出時(1988年12月)には、信託銀行に口座のある特金・ファントラだけでも残高が40兆円、実態把握が困難な営業特金も合わせれば合計70兆円にも達していたと言われる。

しかし、標記通達(蔵証第2150号)により、①既に証券取引法で禁じられていた「損失保証による勧誘」だけでなく、事後的な損失補填も禁止された他、②特金について、投資家(証券会社の顧客)と投資顧問会社との間での投資顧問契約の締結が求められることとなった。これにより、1990年の年明け以降、特金・ファントラ、そして営業特金の解約・精算が一気に加速した結果、日経平均株価はつるべ落としとなった。

1990年3月27日「土地関連融資の抑制について」(蔵銀第555号)

それから僅か3ヶ月後の1990年3月27日。既に日経平均株価はその日までに31,264円にまで下落していたが、同日、大蔵省銀行局から発出された通達「土地関連融資の抑制について」(蔵銀第555号)により、①不動産向け融資の伸び率を総貸出の伸び率以下に抑える(総量規制)、②不動産業、建設業、ノンバンク(住専含む)に対する融資の実態報告を求める(三業種規制)こととされた。不動産融資に関するいわゆる「総量規制」を定める標記通達(蔵銀第555号)の発出をきっかけとして、株価に続いて不動産価格の激しい下落、すなわちバブル崩壊が本格化した。

9-2. バブルの発生と崩壊

上記「総量規制」通達が発せられた経緯については、「検証 バブル失政:エリートたちはなぜ誤ったのか」(軽部、2015)に詳しい。1985年9月22日のいわゆるプラザ合意以降、経常収支の不均衡是正を目的として、G5(日・米・英・西独・仏の蔵相・中銀総裁会議)は為替の協調介入等によって円高ドル安を演出した。当時の金融政策は、日銀が銀行に対して貸出(信用供与)する際に適用する公定歩合の操作を主な手段としていた。急速な円高の進行に対して、政財界から日銀に公定歩合引下げを求める圧力が高まり、日銀は1986年1月29日の公定歩合引下げ(5%→4.5%)を皮切りに計4回の利下げの結果、1987年2月20日以降、2年3ヶ月の間、当時の史上最低水準の2.5%の状態が続いた。

日銀による公定歩合の引下げは、株価や地価を押し上げる要因となった。また、銀行の貸借対照表上、負債(貸方)である通貨供給量(マネーサプライ)と資産(借方)である銀行貸出量とは、当然、貸借同額で増えていく。当時、銀行本体だけでなく、銀行傘下の住専(住宅金融専門会社)等のノンバンク経由で不動産融資が急増したことが、通貨供給量(マネーサプライ)急増の要因となった。従って、日銀の公定歩合引下げによる株価や地価の上昇と共に、不動産融資の急増に伴う通貨供給量(マネーサプライ)の急増こそが、バブル発生のメカニズムといえる。

日銀がようやく公定歩合の引上げに転じたのは、1989年5月30日である(2.5%→3.25%)。その日の日経平均株価(終値)は34,077円。その後、日銀は、同年10月11日(3.25%→3.75%)、同年12月25日(3.75%→4.25%)の二度、公定歩合を引上げたにもかかわらず、日経平均株価は上昇を続け、先述の通り、1989年12月29日には38,957円の史上最高値を記録した。しかし、約半年のタイムラグを経て、その後はキャッシュ・フローの割引現在価値計算に基づく理論値に従い、文字通りつるべ落としのような下落を記録したのである。

また、当時の通貨供給量(マネーサプライ)の代表的な指標であるM2(現金通貨+預金通貨+準通貨[定期預金])+CD(譲渡性預金)について見ると、1987年5月以降、1990年10月に至る3年半にわたり、総じて10%(対前年同月比)を超える高い伸び率を示していた(1989年5月から同年11月の間のみ9%台)。不動産融資規制の通達が発出された1990年3月時点でも11.6%(対前年同月比)であったが、やはり約半年のタイムラグを経て、同年11月からこれもつるべ落としのように下落した。標記通達による不動産融資規制は1991年12月20日に解除されたものの(その月のM2+CDの対前年伸び率は2.0%まで下落)、その後、特に1992年9月から1993年3月にかけて(1993年2月を除き)、M2+CDはマイナスの伸び率(対前年比)、言い換えれば通貨供給量(マネーサプライ)の減少という急激な信用収縮を惹き起こしたのである。

9-3. 不良債権処理の二つの方法

ゴールドマン・サックス証券東京支店で銀行アナリストを務めていたデービッド・アトキンソン氏の著書「銀行不良債権からの脱却」(1994)によれば、1994年3月末段階で、主要銀行21行の公表ベースの不良債権(破綻先債権及び6ヶ月以上の延滞債権)が13兆5,728億円、住専(住宅金融専門会社)などを含めた金利減免債権等を加えた彼自身の独自推計で31兆円にのぼるとされている。

そもそも不良債権とは何か。国際決済銀行(BIS: Bank for International Settlements)の資料等によれば、正しくは、不稼働債権(non-performing loan)という。本当はややこしい定義があるのだが、わかりやすくいえば、不良債権とは、銀行が保有する貸出金等の債権のうち、元本または利息の回収に懸念があるものを意味する。

既に第4章4-1.で示した通り、銀行業における最大の収益源は、預金、貸出金、有価証券等の利息収支から構成される「資金運用収支」である。

「資金運用収支」=「資金運用収益」-「資金調達費用」

ここでいう「資金運用収益」とは、主に稼働債権からもたらされる利息収入を意味する一方、「資金調達費用」とは、主に預金者に対する支払利息を意味する。特に「資金調達費用」は、稼働債権、不稼働債権(不良債権)のいずれかを問わず発生することから、資産(この場合は債権)の「保有コスト」と呼ばれることもある。

この計算構造を前提として、破綻先債権や延滞債権といった不良債権が発生し、利息収入等の「資金運用収益」が減少した場合に何が起こるか。不良債権の発生とは全く無関係に「資金調達費用」や経費(人件費、物件費、税金等)はそれ以前と変わりなく発生する。そのため、不良債権が発生すると、銀行の業務粗利益、そしてそこから経費(人件費、物件費、税金等)控除後の業務純益は減少し、場合によっては赤字に陥ることもある。特に、業務純益が赤字に陥った場合は、銀行の自己資本を毀損する。いわゆるBIS規制によって、一定の自己資本比率を割り込んだ場合、銀行の業務継続上、重大な問題となるのである。

そこで、不良債権処理を進めなければならない。不良債権処理においては、大きく分けて以下の2つの方法が採られる。

引当処理

第一の方法は、不良債権の回収不能分の償却である。貸借対照表上の不良債権の簿価を切り下げる(または対照勘定として貸倒引当金を計上する)と同時に、損益計算書上で貸倒損失または貸倒引当金繰入額として費用計上する。通常、「引当処理」と呼ばれる不良債権の処理方法である。

これは、会計的な処理、具体的にいえば銀行の会計帳簿上での処理である。不良債権とこれに対応する負債を貸借対照表から両建てでオフバランスする(残高を消し去る)ことによって、その不良債権にかかる「保有コスト」を削減するのである。従って、普通に考えれば、企業会計原則をはじめとする会計基準、すなわち、大蔵省証券局が所管していた有価証券取引法の財務諸表等規則や、法務省が所管する商法(会社法)の会社計算規則に従って、不良債権の償却を進めていけば良かったのだが、当時の大蔵官僚はそれを許さなかった。

どういうことか。銀行業における会計基準は、既に述べた通り、ビジネス・モデルにおける他の業種との根本的な違いもあり、独特な発展を遂げてきた。現在に至る銀行の会計処理方法の原型は、1967年(昭和42年)9月に発出された大蔵省銀行局長通達「銀行の統一経理基準」にある。1982年(昭和57年)4月の通達「普通銀行の業務運営に関する基本事項等について」(昭57.4.1付蔵銀第901号)の別紙「普通銀行の業務運営に関する基本事項」により、銀行局長が銀行の決算の基準として定めたのが「決算経理基準」である。金融危機の最中だった1998年(平成10年)6月10日に「総量規制」通達と共に廃止されるまで、この「決算経理基準」が適用されていた。

本来、株式会社である銀行にも等しく適用されるはずの企業会計原則をはじめとする会計基準は「一般法」という位置付けになる。これに対して、銀行局長通達による「決算経理基準」は「特別法」の位置付けとなるから、企業会計基準に優先して適用される。今から思えば痛恨だが、銀行局長通達による銀行の「決算経理基準」は、内容的にも「一般に公正妥当と認められる会計基準」と大きく乖離した、法人税法とその解釈を基礎とする「税法基準」とも呼ばれるものだった。

不良債権の償却とは、会計的には、貸借対照表上の不良債権の簿価を切り下げる(または対照勘定として貸倒引当金を計上する)と同時に、損益計算書上で貸倒損失または貸倒引当金繰入額として費用計上することを意味する。そして、不良債権とこれに対応する負債を貸借対照表から両建てでオフバランスする(残高を消し去る)ことによって、その不良債権にかかる「保有コスト」を削減することを目的とする。

しかし、法人税法上、貸倒損失の損金計上は極めて限定されるのみならず(法人税基本通達9-6-1から9-6-3)、貸倒引当金の繰入も制限されている(法人税法施行令第96条第1項)。なぜなら、法人税法を執行する大蔵官僚の観点からすれば、貸倒損失及び貸倒引当金繰入による損金計上を自由に認めると、その分、課税所得とそれに伴う税収が減少するので、これを制限するのは当然のことだったからである。当時の大蔵省内部における力関係ば「主税局>銀行局>証券局」というものであったが、政策面でもこのような力関係が影響していたと思われる。

その結果、1998年(平成10年)6月10日に「税法基準」の「決算経理基準」が廃止されるまで、これが不良債権処理の最大の障壁となった。不良債権の発生に応じて弾力的な貸倒損失及び貸倒引当金繰入による損金計上が認められないため、不良債権の償却が遅々として進まなかっただけではない。銀行が敢えて法人税を支払う「有税償却」を選択したとしても、不良債権にかかる「保有コスト」の削減効果は法人税額分減殺される。残念ながら、当時の大蔵官僚には法人税法に関する法解釈の技術はあっても、会計的に不良債権を処理する専門性が欠けていたとしか言いようがない。

最終処理

不良債権処理の第二の方法は、不良債権の回収可能分の回収である。これにより不良債権の全額を消し去ることから、通常、「最終処理」と呼ばれる。具体的には、担保不動産を「処分」して債権回収することにより、不良債権の損失(回収不能分)を確定させると共に、不良債権の全額とこれに対応する負債を貸借対照表から両建てでオフバランスする(残高を消し去る)。これによって、資産側(借方)の不良債権全額と負債(貸方)から生ずる「保有コスト」との両方を削減する。更に、回収したキャッシュを新たな稼働債権として運用することにより、利息収入等の「資金運用収益」を増やすこともできるのである。

しかし現実には、銀行が不良債権の担保不動産を差し押さえて売却する「担保権の実行」手続には、様々なハードルが存在した。ちなみに、2001年6月28日に公表された内閣府の「バランスシート調整の影響等に関する検討プロジェクト」によれば、『最終処理とは、金融機関の貸借対照表から不良債権を落とすことを指す。その類型としては、①法的整理(会社更生法、民事再生法に基づく)、②私的整理(債権放棄等を含む)、③債権売却』の三つに限定されている。実は、この三類型は端的に言えば過剰債務を抱える企業を「潰す」ハードランディング方式を意味する。残念なことに、2001年時点でもなお「最終処理」はハードランディング方式の意味しか持たなかったといえる。

しかし、不良債権の「最終処理」として、過剰債務を抱える企業の「再生」を図りつつ、結果的に倒産を免れないとしても少なくとも「再生」に向けた時間的な猶予を与えるソフトランディング方式も存在する。それは、担保不動産の「証券化」の手法である。

デービッド・アトキンソン氏の著書「銀行不良債権からの脱却」(1994)では、既に1994年の時点で、担保不動産の「証券化」による不良債権の「最終処理」のソフトランディング方式が提案されている。同書には『現物市場で不動産を売却するのではなく、その不動産をもとにして、投資家のためにもっと魅力のある商品を作る』(同p.137)「証券化」について、その手法も含め詳細な記述がある。また、『当局に残された課題』として、『証券化によって、効率的な担保の処分を進めるには、銀行にエクイティーの保有を認め、さらにオフバランス取引扱いと(不良債権の簿価と収益還元価格との差額をエクイティーとする)差額方式をともに認めなければならない』(同p.210)との記述もある。詳細に言及する紙幅はないが、当時、大蔵官僚に求められた専門能力としては、不良債権と担保不動産の「証券化」を推進するための立法、特に英米法における信託法や有価証券取引法に関する知識が決定的に不足していたのではないか。

9-4. 「不良債権」の定義なき不良債権処理

1990年代前半の無策

不良債権処理の対応策は、大蔵省主導ではなく、全銀協(全国銀行協会連合会)によるものだった。1993年1月、不動産担保付債権の流動化を図るため、金融機関162社の共同出資により「共同債権買取機構」が設立された。同機構は、不良債権と化した不動産担保付債権を売却する金融機関やノンバンクからの融資によってその不動産担保付債権を買取ることにより、金融機関が売却時に貸倒損失(債権額と売却額との差額)にかかる税務上の損金計上を可能とするスキームだった。従って、実際には「引当処理」に留まり、設立初年度の1993年中の買取実績は890件、対象債権額は2兆2,024億円に達したものの、担保不動産の売却という「最終処理」に至ったものは僅か約118億円に過ぎなかった。その後2001年3月までに,同機構は買取価額5.8兆円(債権額15.4兆円)、回収額4.7兆円を実現したが、以後は活動を停止した。

そもそも1990年代前半、不良債権の定義さえ不明確だった。ようやく大蔵省銀行局が対象とする金融機関をそれまでの主要21銀行から農協や信金・信組といった全ての預金金融機関に拡大し、また破綻先・延滞債権だけでなく住専向けの金利減免等債権にまで範囲を広げて、不良債権額は約40兆円と公表したのは1995年5月のことだった。当たり前のことだが、目に見えないものをコントロールすることはできない。また、以下に述べるように、その後の1990年代後半における金融危機対応法制は主として「金融機関破綻処理法制」ともいうべきものであり、不良債権問題の抜本的解決は2000年代初頭まで先送りされた。結局、1990年代を通じて、大蔵官僚はほぼ不良債権処理について無力だったといえるのではないだろうか。

1990年代後半の金融危機対応法制

1990年代後半の金融危機対応に関する立法は、当時の関係者には申し訳ないが、単に会社更生法の特別法とも言うべき「金融機関破綻処理法制」、それも預金者保護にのみ偏った枝葉末節ではなかったか。もちろん預金者保護は大事だが、金融機関の不良債権処理と共に、金融機関による債権放棄を含む不良債権の借手の「再生」という視点は全く欠落していた。1994年7月から1996年6月まで大蔵省銀行局長を務めた西村吉正氏の著書「金融行政の敗因」(1999)の記述に従い、1990年代後半の主な金融危機対応法制について時系列を追って列挙すれば以下の通りである。

・1996年6月18日、金融関連三法案(経営健全性確保法案、更生手続特例法案、預金保険法改正法案)が可決成立した。経営健全性確保法案は早期是正措置や信用組合への外部監査の導入等、更生手続特例法案は監督当局による金融機関の破綻処理申立等、預金保険法改正案はペイオフ発動(破綻金融機関の預金を一定金額までしか保護しない措置)を5年間延期するとともに、信用組合の破綻処理の受け皿として整理回収機構の創設等を規定するものであった。

・1998年2月16日、前年11月の三洋証券、山一證券、北海道拓殖銀行の破綻を受けて、金融機能安定化緊急措置法案及び預金保険法改正案が可決成立した。これにより、10兆円の交付国債と20兆円の政府保証の合計30兆円の公的資金を財源として、このうち特別業務勘定17兆円は破綻金融機関の預金の全額保証を図るため(預金保険法)、金融危機管理勘定13兆円は金融機関の自己資本の充実を図るため(緊急措置法)、それぞれ設置された。しかし、自己資本増強のための金融危機管理勘定13兆円は、責任追及を恐れた銀行の経営陣が申請を躊躇したこともあり、僅か1兆8,000億円を横並びで投入した後、下記金融再生関連法による金融機能早期健全化勘定25兆円に衣替え・増額されてその役目を終えた。なお、この名称変更は単なる言葉遊びでしかない。

・1998年10月16日、野党案を「丸呑み」した金融再生関連法案及び金融機能早期健全化法案が可決成立した。同年7月16日の参議院選挙における自民党大敗により、橋本龍太郎内閣が退陣、小渕恵三内閣に交替した直後でもあり、与野党の政争の具とされた観もある。金融再生関連法では、その後、日本長期信用銀行や日本債券信用銀行に適用された特別公的管理等の破綻処理スキームが規定された他、金融再生委員会を設置すると共に、金融監督庁をその下に移管する等、金融政策とは無関係な単なる組織弄りまで盛り込まれた。

筆者は、1996年7月から1999年6月まで、在マレーシア日本国大使館の一等書記官としてクアラルンプールに駐在していた。講談社「月刊VIEWS」誌上で「政と官」について改憲論として私見を披露したところ、左遷の憂き目を見たのである。従って、その間の日本国内での動きには疎かった。ただ、1997年7月以降のアジア通貨危機の中にあって、日本のバブルの崩壊過程における大蔵官僚の無為無策には危機感を抱いた記憶がある。

9-5. 諸外国に見る不良債権処理スキーム

世界の歴史を振り返れば、「根拠なき熱狂」ともいうべき資産価格の暴騰によるバブルの発生と崩壊は何度も繰り返されてきた。1630年代のオランダでのチューリップ・バブル、1720年前後に時を同じくして発生したイギリスの南海泡沫事件とフランスのジョン・ローのスキーム、1929年のアメリカの大恐慌等々である。1990年代、日本がバブル崩壊に苦しんでいた同じ時期、金融技術を活用して不良債権問題を克服したスウェーデンとマレーシアの例を紹介する。

スウェーデン

1985年に行われた金融市場の規制緩和により商業用不動産と株価が急騰したが、1990年8月の湾岸危機を契機とする原油価格等の上昇に伴い、同年秋から金利が大幅に引き上げられた。これにより地価と株価が暴落したため、直接またはノンバンク経由の商業銀行による不動産担保融資が不良債権化するに至った。

スウェーデン政府の採用した不良債権処理スキームは、グッドバンク・バッドバンク戦略(good bank/bad bank strategy)と呼ばれる。対象銀行は、資産査定により正常債権と不良債権を分離した上で、簿価から減損した価格で不良債権を独立の国有不良債権処理会社(バッドバンク)に譲渡する。不良債権を分離した対象銀行は、分離時の減損損失を計上して以降はグッドバンクとして本来の銀行経営に専念できる。他方、バッドバンクである国有不良債権処理会社は、一定の存続期間内に政府(納税者)のコストを最小化させるとの方針の下、①再生可能な借手企業を存続させつつ、資産価値を向上させて売却する方法(再建型)と、②担保権の実行も含め破綻処理する方法(清算型)の両者を併用した。スウェーデンの場合、結果的に①再建型3割、②清算型7割だったとされる。

マレーシア

1997年7月にタイで発生したアジア通貨危機は、短期資本の流出とマレーシア・リンギ(マレーシアの通貨単位)の下落という形で隣国のマレーシアにもすぐに波及した。マレーシア中銀は当初、為替介入(ドル売り・リンギ買い)と金利の高め誘導で対抗したが、同月中にはリンギを為替市場に完全に委ねる変動相場制に移行し、投機筋に屈した形となった。通貨下落と共に、株価の下落が続き、そして実体経済を担う企業業績も急速に悪化した。このようなマレーシア経済の急速な収縮は銀行経営も直撃し、1998年5月末時点での不良債権比率は8.5%に達した。

かかる危機的状況に対応するため、1998年6月、マレーシア財務省は不良債権買取機関としてダナハルタ(Danaharta Nasional Berhad)を設立すると共に、同8月にはマレーシア中銀の出資により、銀行に資本注入を行う特別目的会社(SPC: Special Purpose Company)としてダナモダル(Danamodal Nasional Berhad)を設立した。ダナハルタのアドバイザーはアーサー・アンダーセンとJPモルガン、ダナモダルのアドバイザーはソロモン・スミス・バーニーとゴールドマン・サックスであった。その不良債権処理スキームは、基本的に現金(国民負担となる税金)を用いない、巧妙かつ芸術的ともいえるものだった。

まず、マレーシア財務省が5年満期で政府保証付きのゼロクーポン債(ダナハルタ債)を発行した上で、ダナハルタはそのゼロクーポン債(ダナハルタ債)を対価として銀行から不良債権を買い取る。なお、買取価格は不良債権の簿価の約40-60%程度だったとされている。銀行側からすれば、不良債権の「最終処理」、すなわち不良債権の損失(回収不能分)を確定させると共に、不良債権が稼働債権、具体的には政府保証付きのゼロクーポン債(ダナハルタ債)への転換が可能となった。

一方、資本注入機関のダナモダルは、中銀債としてのゼロクーポン債(ダナモダル債)を発行することで財源を調達した。その引受け手は資本注入の対象となる銀行である。巧妙なことに、マレーシア中銀は、金融緩和措置も兼ねて法定預金準備率を6%から4%に引き下げることにより、銀行がマレーシア中銀に保有する当座預金勘定を減額し、中銀債としてのゼロクーポン債(ダナモダル債)勘定を増額するという帳簿上の振替手続のみで、銀行に対する資本注入に必要な財源を調達したのである。

上記ダナハルタによる不良債権処理とダナモダルによる銀行の資本増強に加え、ダメを押したのが1998年9月導入の固定相場制・資本取引規制と、それに伴う金融緩和政策である。

アジア通貨危機におけるIMFの処方箋は、IMFからの支援(外貨借入=資本輸入)の見返りにマクロ経済の不均衡是正を図る緊縮財政や構造調整を迫るものであった。当時、マハティール首相は、国際的な投資家のジョージ・ソロス氏との論争の中で、ヘッジファンドによる投機を激しく非難すると共に、IMFによる支援(外貨融資)とその見返りとしての管理を受け入れたタイ、インドネシア、韓国とは異なり、断じてIMFの軍門には下らないとの強硬姿勢を貫いた。

1999年にノーベル経済学賞を受賞したロバート・マンデル教授が提唱する「国際金融のトリレンマ」が教えるところでは、①自由な資本移動、②固定相場制、③独立した金融政策の全てを同時に達成することはできないとされる。この観点からすれば、上記三ヶ国に課されたIMFの処方箋は、②固定相場制を放棄する、つまり変動相場制を維持した上で、①自由な資本移動と③独立した金融政策を守るため、歳出削減や増税による経常赤字の削減の他、金融部門の構造調整としての不良債権処理、そして変動相場制の下での貿易自由化・資本自由化を含む構造改革等、非常に過酷なものであった。

これに対して、マハティール首相が蛮勇を奮って確保したのは、②固定相場制と③独立した金融政策であった。そのために敢えて①自由な資本移動を捨てて、資本取引規制と固定相場制への回帰を選択したのである。その後、マレーシア経済は再び成長軌道に戻り、マハティール首相は、政治的にも、経済政策としてもこの大勝負に見事な勝利を収めたといえる。先頃(2018年5月)、92歳のマハティール氏は再び首相に返り咲いた。老いてなお政治家としての気迫を感じる方である。

9-6. なぜ日本では不良債権処理が進まなかったのか?

筆者は、マレーシア政府の不良債権処理策を目の当たりにする機会に恵まれた。1999年7月に帰国してからは、不良債権処理の一つのやり方としてこのような選択肢もあると説いて回っていたが、当時の大蔵省内では誰も興味を示さなかった。当然、官僚の世界も縦割り社会なので、不良債権処理は(当時の)金融監督庁の仕事と割り切っていたのかも知れない。また、「マレーシアは経済規模の小さな途上国だからできるが、日本ではそんなことはできない」と鼻から相手にしないような反応もあった。

2,000年以上前のカエサルの言葉に、「人は、自分の見たいと思うものしか見えない」というものがある。言い換えれば、人は誰でも自分の心のフィルターを掛けて現実を見ている。大蔵官僚の場合、二十歳前後に東大法学部で得た法解釈の技術を通して何事も見ようとするのではないだろうか。既に述べた銀行の特殊なビジネス・モデル、不良債権処理に関する会計的知識、そしてマレーシア政府の用いた特別目的会社(SPC: Special Purpose Company)による不良債権処理スキームに関するファイナンス理論も、大蔵官僚にとっては「見たいと思うもの」ではなかったのかもしれない。

このカエサルの言葉に対して、僭越ながら筆者が何か付け加えるとすれば、「人は自分の見えるものしか創り出すことはできない」というものである。同様に、「すべてのものは、まず頭の中で創造され、次に実際にかたちあるものとして創造される」。これは「7つの習慣:人格主義の回復」(2013年,キングベアー出版)にある名言である。例えば、上記の例でいえば、銀行の特殊なビジネス・モデル、不良債権処理に関する会計的知識、そしてマレーシア政府の用いた特別目的会社(SPC: Special Purpose Company)に関するファイナンス理論のいずれも、何かしらの法令の条文があって、その法解釈から創り出される訳ではない。まず自分の頭の中にこれらの知識や理論を取り込んだ上で、世の中の役に立つ、そして社会の抱える問題を解決することのできる新しい「仕組み」や「システム」を創り上げることこそが、本来、官僚や政治家の役割なのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?