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行間で亡くなった名もない人々

WH版『風の万里 黎明の空』下巻での小野先生のあとがきですが、WH版所有されていない方ともシェアできたらいいなと思ったので、ここにその部分と自分が思ったことを少し書き出してみました。

あとがきの気になった部分は、以下のとおりです。

 今回、たくさんの人が死にました。「死んだ」と明記していない名もない人々も、行の隙間でばたばたと死んでます。あえて多くは書き込みませんでしたが、それはこれ以上登場人物が増えたり、エピソードが増えると、本の横幅より厚い本になりかねなかったからです。
 本人達には人生の終焉という、一大事です。でも、主要登場人物じゃないから、死んだと明記さえされない。なんて、理不尽なんでしょうね。理不尽を分かっていながら物語の都合上、切り捨てないといけない。辛いところです。
 ですからそこは読者の想像力におすがりしたい。すべての人間にとって、本人こそが主人公だということを、ゆめゆめお忘れなく。本を閉じたあとにでも、ふっと思い出していただけると幸いです。
『風の万里 黎明の空』WH版下巻369-370項

小野先生はこう仰ってはいるんですが、小説内では名もない登場人物の描写も細やかだったり、行間で多くの人が亡くなったり苦しんでいるのもさりげなく、でもきちんと書かれているので、感情移入してしまって気にせずにはいれないんですよね・・・。個人的にはこういった人の方が自分と共通する部分が多かったり、一般市民――小野先生曰く「端っこに地味に存在する市井の人たち」――とは立ち位置が近かったりするので、共感というか想像がしやすいというか・・・。

主要な登場人物はどちらかと言うと憧れだったり規範的で自分との直接的な投影はなかなかしづらい部分もあったり…(もちろん、状況なんかでそれは変わってくるのですが)*

今回の新刊『白銀の墟 玄の月』では、恐らく『風の万里~』以上にたくさんの人が亡くなり、また、文章的にだいぶ削ったと一時期公開されいた『波』2019/11号のインタビューで仰っていたので、きっと小野先生の頭の中ではそれぞれの人物の人生や想いやドラマがいろいろあったんだろうな・・・と。

どんな形態の作品も、もちろん作者や製作者の意図は必ずあるとは思うのですが、公の場(他の人)に開示された時点で、受け取り方はその受け手側に託されていると個人的には思っており・・・。(小説なら、読者。音楽ならリスナーなど。)

一般的に表現の自由というのがあたりまえの権利として日本では与えられていますが(そうであると思いたい…)、その中には作品に対する受け手の受け取り方の自由も含まれていると思っており。もちろんその受け取り方・表現方法が、他者を傷付けるようなのはあるまじきことだとは思いますが、自由であるからこそさまざまな作品を楽しめるのだと思っています。そんなのは当たり前で今更かもしれないのですが・・・。

それを分かっていらっしゃる中で、小野先生があえて、小説に登場する「すべての人間にとって、本人こそが主人公だということ」を忘れずにいてほしい、読者の想像力にすがりたいと仰っているのはすごく強いメッセージだとも思えて。

先に書いたように、この言葉をうかがわなくとも小説からひしひしとその人たちのドラマや想いを強く感じるのですが、あえて小野先生ご本人もそれを願っていらっしゃるのかもしれないと思うと、個人的にはすごく泣けてくるというか・・・。

これは本当に勝手な解釈なのですが、そういう人たちを大事に書いていらっしゃるというのは、自分みたいな普通の人の人生にも焦点をあててくれているような、励ましてくれているような気がして。

もちろん十二国記における多くの魅力的な主人公クラスの登場人物も好きなのですが、世界にはそういう一般的?な人がほとんどそうであって、でもそういった人たちの描写から、それぞれが「第一人称」として生きているよ、頑張ってるよ、とも捉えれるかな・・・とも思い・・・。(主役でヒーロ級の人物であっても逆に自分と同じようなと変わらない悩みを持っていたりして描かれているので、それはそれでかなり魅力的でもあるのですが・・・!)

そういうのを、十二国記からは色んな場面で感じ取れて、頑張ろう・・・と励まされるので、なお好きなんだなぁと思うのです。

『波』のインタビューでは、そういう名もない人たちを描くのが好きと仰っていたので、削った部分もぜひとも読ませてほしいな・・・!と思いつつ・・・。(全然本の横幅よりも厚くなっても構わない、いや、逆に歓迎なので!!)そのあたり、短編やまた別の機会にお目に書かれたらいいですねぇ・・・。


以下は上の” * ” 部分での補足です。かなり偏った考え方なのでお気をつけください・・・。

*特に武人なんかの立場や状況は本当に想像でしかなく・・・。そういった人物の心情などの想像は、体験していないからこそ想像をかき立てられる意味では楽しかったり、逆に深く考えさせられもしますが、実際の戦場に身をおいて自身が体験したことがないので、どこまでその自分の想像の感情が、その人物の身において考えられているかというのは疑問で・・・。

実際の戦場で戦うというのは筆舌に尽くし難いものがやはりあると思います。ちゃんとその話題で直接話しをしたことはありませんが、親を通して聞いた、戦場を「兵士」として体験した祖父なんかの話は悲惨で生きるのに精一杯でという印象で・・・。また海外の元軍人の人の話も聞いたことがありますが、戦いの現場ではやはり安穏とした場からいる自分とは考え方が違ったり、命を常に危険に晒すという場では、平和的な考えをしている余裕もないのだと、表面的にですが感じたりもしたものです・・・。
また、王や施政者も同じで・・・。こちらは小説内でも描かれたり問題提起されている気がしますが、王そのものになった時の心情と、王でないものが考える「王」たるべき姿や考え方はまた違うのだと・・・。色んな立場の人たちを考えるのは大変だ・・・。それを本当に存在しているかのように書かれている小野先生はもっと凄い・・・(いや、本当に十二国という世界にいると私は信じている笑)。

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