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ロシア

 旧ソ連では数千人を対象とした絶食療法の臨床試験が40年以上にわたって行われてきた。シベリアのウリアード共和国では絶食療法が公衆衛生政策の柱の一つとして実施されている。

 バイカル湖に近いゴリャチンスク共和国の診療所は絶食療法の中心地であり、ここでは、絶食療法に費用が公的健康保険でまかなわれている。オリガ・ボチャロワは、絶食療法を受けるために、ここを訪れた。甘いものに対するアレルギーがあり、これまでの治療法ではよくならなかったが、ぜんそくの兄がここの治療を受け、21日の治療機関のうち7日目に良くなったという話を聞いていたのである。オリガは18日の絶食療法を受けた。
 治療には患者のやる気が必要である。ゴリャチンスク診療所の医師ナタリア・バタエワは、患者に対して絶食療法のやり方と安全性説明する。絶食療法は、いくつもの疾患に効く可能性のある治療法である。一度絶食療法を経験した患者は、別の病気を治すためにまた診療所を訪れるという。

 絶食療法の期間は平均して12日間。口にするのは水だけである。病気の状態によっては3週間に及ぶこともある。慢性疾患の場合、治療を開始して2~3日目に投薬を中止する。医師の監督下に置くことが必須である。自己管理に任せた絶食は危険である。訓練を受けた専門家による指導が欠かせない。
 絶食期間に栄養失調に陥ることはないが、いくつかの代謝に関係する物質が体内で減少する。たとえば、ビタミンC、D、Eなどであるが、重大な不足が起こることはない。
 ここでの15年間1万人の記録によれば、糖尿病、ぜんそく、高血圧、リウマチ、アレルギーなどの患者の三分の二の症状が消えた。
 「食べないことは大して苦痛ではない。」と患者は言う。空腹感は2~3日すると消えてしまう。注意すべきは「アシドーシス」である。血液の酸性度が上がり、疲労感、吐き気、頭痛などの症状が出る。つらい症状だが、身体が劇的な変化を受け入れる代償である。蓄えてきた栄養を自ら消化することを身体が学ぶ期間なのである。

 絶食療法を受けるオーリャ・バザロワは、「三日目まではつらかったが慣れてきた。今日は調子が良いが、まだ快調とまでは言えない。」という。三日目までは排出と解毒の期間であり、患者にはつらい。
 この時期を過ぎると身体の中がきれいになり、体調もどんどん良くなっていく。医師は言う。アシドーシスを治療において重要な段階と考えている。 
 尿に出る酸性物質の量を計れば、その期間とピークを診断できる。アシドーシスの期間はどんな疾患も悪化する。片頭痛が強まり、関節炎であれば関節が激しく痛む場合があるが、一時的なものであり、24時間から36時間で収まる。絶食の間、身体の組織は自らの栄養を確保しなければならず、アシドーシスはその大きな変化の現れである、と。

 身体の組織はどうやって必要な栄養を手に入れるのか。身体を支えるエネルギー源は3つある。ブドウ糖、タンパク質、脂肪である。ブドウ糖は主なエネルギー源であり、これがないと脳も機能しない。しかし、ブドウ糖は1日で使い終わってしまう。タンパク質からブドウ糖をつくることができ、筋肉に蓄えられたタンパク質がエネルギー源として使われる。脂肪からは、ブドウ糖そのものではないが、その代替となるケトン体を作ることができ、これを脳のエネルギー源として供給する。脂肪は肝臓においてケトン体に変換することができる。

 ロシアにおける絶食療法の起源は旧ソ連時代にさかのぼる。ドキュメンタリー作成時点(2011年)の約60年前、モスクワ第一医科大学精神科診療所においては、患者をおとなしくさせるために薬を用いていたが、それは人間性を損なうもので、好もしくないという考え方があった。
 あるとき、診療所の医師であるニコラエフは、食べることを拒否する患者に、通常とは異なるアプローチを試みた。食事を強要するのではなく、患者の本能にまかせて、そのまま様子をみたのである。ニコラエフの記録によれば、その結果、患者の悲観的態度が薄れ、目を開けるようになった。10日目には歩き始めたが、まだ話はしない。15日目、患者は枕元に置いたジュースを飲み、散歩に出かけた。社会生活への復帰の道を歩み始めたのである。

 この例は注目に値する。精神疾患が絶食で治癒したのだ。ユーリ・ニコラエフ医師はこのことに驚き、絶食の研究を続け、発展させた。
 その後も治療の効果は期待を上回り、治療を待つ患者が増加した。ニコラエフは、25~40日の絶食で、統合失調症、うつ病、恐怖症、強迫性障害の患者を治療した。
 症例の検証にも着手した。心理テスト、尿や血液の検査、ホルモンの数値、睡眠のデータなどを分析した。
 グルビチ医師は次のように言う。絶食は患者の精神疾患だけでなく、患者の人格全体に影響を与える。一週間で意識が鮮明になる。アシドーシスが終わると落ち着きを取り戻す。食事を開始(回復食?)した週には鬱の症状が軽くなる。
 8000人のうち、症状が改善した患者は70%。治療の6年後も47%は良好な状態を保った。結婚した人もいる。さらに、高血圧、関節炎、ぜんそく、皮膚炎なども良くなった。

 保健省では1973年、検証プロジェクトを立ち上げた。パブロフ生理学研究所の呼吸器科医師のアレクセイ・ココソフ教授とロシア医学アカデミー胃腸科医師のワレリ・マクシモフ教授政府の命を受けて絶食の研究に取り組んだ。
 マクシモフ医師は胃や小腸の分泌、バクテリアの状態、免疫レベル、ミネラル・ビタミンの変化など、多岐にわたって検証した。
 ニコラエフの膨大なデータから治療しても良い病気と治療してはいけない病気の詳細なリストができた。
 治療しても良い病気は、気管支喘息、心臓血管障害、胃腸疾患、内分泌疾患、消化器疾患など。
 治療してはいけない病気は、がん、結核、Ⅰ型糖尿病、慢性肝炎など。
 ココソフ医師は言う。絶食によって起こるストレス状態が、身体の回復のメカニズムと、普段は生活習慣のせいで眠っている自己調節力を目覚めさせるのだ。
 ストレスがキーワードである。絶食はある種のストレスを生じる。飢餓に直面すると、身体に警告が発せられ、ホルモン分泌に変化が起こる。身体に蓄えた物質を身体の必要な場所に運ぶ。絶食が効果をあげたのは、身体の自己調節力が働いたからである。血中のブドウ糖、コレステロール、中性脂肪、インシュリンが低下し、身体のエネルギー消費量が減少、呼吸、心拍数が低下、血圧も下がり、消化器系が休眠状態に入るといったダイナミックな変化が起こるのである。

 ココソフ教授の教え子であるセルゲイ・オシニン教授は、呼吸器科のぜんそく専門医として一万人以上の患者を治療してきた。肺粘膜の細胞の受容体にヒスタミンが結びついて詰まって気管支がけいれんしていたのが、12日間の絶食でヒスタミンがなくなり、けいれんが収まった。絶食療法でヒスタミンが不活性化することを確認した。適当な食習慣を守ることで、7年後もぜんそくによる問題は出ていない。絶食以外の治療が必要なケースもあるが、10~15%は完治した。
 旧ソ連の4か所で行われた絶食療法のデータが集められ、結果がまとめられて、科学アカデミーはデータを公表したが、ソ連以外で公表されることはなかった。

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