魚より少し賢い漁師

 年末年始は,多忙な日常から少し離れてこの一年を振り返るなど,日頃より多少長いタイムスパンで物事を考えることが多い時期である。年末に墓参りをし,高齢の親たちがどうにか生きて年を越してくれたことに安堵する中,自分のファミリーヒストリーという,一年よりも長いタイムスパンで過去を振り返ってみようと,ふと思った。
 私が18歳まで過ごしたのは瀬戸内海沿岸の漁村である。祖父より前は漁業を生業としていたようだが,祖父の代に下駄や日用品を売る店を商店街に出して商売を始めた。次の代は祖父の末っ子が跡を継ぎ,祖父の店の隣で父の兄が洋品店を,その隣で父が薬局を営んでいたものの,大店舗化という時代の流れについていけず,どの店も跡を継ぐ者がいなくて,すでに三店舗とも廃業している。二代限りで終わりである。
 祖父以前の漁業を生業としていた時代がどれほど続いたかは知らない。その漁村には,平家の落人が隠れ住んだという話や,近くの小さな島には隠れキリシタンが住んでいたといった話が伝わっている。もしかするとうちの祖先は平清盛の家臣かもしれないとか,もし隠れキリシタンであったとすると,今は本家に仏壇があるので,どこかで改宗したのだろうかといったロマンティックなことも想像できるが,ルーツをそこまでたどれるほどの情報はない。ともかく,祖父の前のそこそこの期間,漁村本来の生業である漁師が続いていたことは間違いない。
 父は商家の子である。その父が,祖先の生業である漁師については,「魚より少し賢ければ漁師はできる。」と言っていた。人を相手に商売することは難しくても,魚を相手にすることならばできると漁師を嘲笑しているようにも聞こえるが,実はそうではない。地元では坪網という定置網漁法が今も続いている。魚が泳いでいて障害物があると沖の方に向かう性質を利用して,岸から沖の方に向かってまっすぐに網を張って魚を沖に向かわせ,その先に丸く網を張って,いつの間にか戻れないところに魚を誘導するというものである。魚より少し賢い人間様が考え付いた,魚が来るのを「待つ」漁法である。父は,祖先がそのような漁法を考案したことを,さも漁師を嘲笑するかのような言葉を用いて,自慢していたのである。
 自分に目を向けてみる。大学時代に,実験用のラット(ネズミ)を飼育していた。ラット用の餌としては,飼料をペレット状にしたものが主であったが,ヒマワリの種も時折購入していた。ある日,ラットがどんなものを食べているか自分も体験してみようと思い,ヒマワリの種を口に入れて,バリバリと食べてみた。種の中ほどには少量のやわらかく食べやすい部分があるが,大半は繊維がいつまでも口に残り,人間様の口には合わないと思った。その後,ラットにヒマワリの種を与えた。ラットは,迷わずにヒマワリの種の殻をむいて,やわらかい中身だけを食べていた。ラットは私より賢かった。敗北を認めざるを得なかった。それでも,ラットは魚より高等な動物だから,魚になら勝てるかもしれないと強がってみたが,空しい気持ちになった。
 あれから40年以上が経過した。私の生業としてきたものの対象は,魚でもラットでもなく,人だった。ラット以下の自分に何ができたか,そろそろ勇気をもって真剣に考えるべきではないか,という声がどこからともなく聞こえたような気がする。幻聴か。

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