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人様を不快にさせるのが怖くて、物を書けなくなっていた話

書いたものが誰かを傷つける恐怖

なんだか最近、ブログ記事や小説について、「人様を不快にさせるのが怖くて、物を書けない」という考えに陥り、お蔵入り(ネットにも何処にも発表しないこと)を続けていた。

これは「いいねが付かなかったらどうしよう」「批判を受け炎上したらどうしよう」という次元の話ではなく、
「誰かを傷つけてしまうのではないか」という恐れからくるものだ。


一応断っておくと、元来僕は、ネットで特別に誰かをこき下ろしたり、強い政治主張なんかをするタイプではない。

このnoteだって、書いているのは最近読んだ本の感想とか、遊びに行った美術館、美味しかったカレーの話くらいだ。
それらの内容も至って穏便なもので、ここ五年くらいは「つまらなかった」程度の批判も書かないようにしている。


しかし、そんな人畜無害な内容であっても、誰も傷つけない保証などないのだ。


例えば僕が「新宿にあるカレー屋さんが美味しい」と書いたことで、金銭的事情で新宿に出られない人を不快にさせているかもしれない。

美術館に行ったことを書けば、身体的都合で美術館に行けない人を傷つけているかもしれない。

妻との生活が楽しいと書けば、婚活中の人を不快にさせるかもしれない。


誇張でも冗談でもなく、僕の中では本当に、上記のような不安が、日に日に高まっていたのだ。


代替策として匿名アカウントを作ったが……

僕は当初、こうした不安を「炎上に対する恐れ」なのだと解釈した。

そのため対策として、このアカウントとは別の、全く知り合いが見ていないアカウントを作ってみた。
そこには何のしがらみもないので、政治のことも、楽しかったことも、鬱々とした内面についても書ける。
これで全て解決するだろうと思った。

手始めに僕は、オリンピック開会式について感じていたことを、ネガティブな方向で書いた。
(オリンピックは平和の祭典であった筈なのに、それが純粋に為されないのは哀しい。今回に限ったことじゃないけどね、といったこと)

ありがたいことに(不思議なことに)、今のブログサービスというのは全くの匿名であっても数人は見てくれるように出来ている。

その記事にも十数人~数十人の閲覧が付き、いいねもいくつか付いた。そして批判的なコメントは付かなかった。

しかし僕は、それをアップして数日で胸が苦しくなってしまい、その記事を消してしまった。
それは、「もし選手やその関係者がこの記事を見たら、少しでもネガティブな気持ちになる」可能性があると感じたからだ。


ここではっきりしたのが、僕は批判や炎上を恐れているのではなく、
僕の影響で誰かが不快になることを極端に恐れている ということだった。


読む側の自己責任?

「無料のブログなんか、好きに書けばいいじゃん。読む側の自己責任でしょ」
という意見もあるだろう。

法的には、もちろんそうだ。しかし、倫理的にはそうではないと思う。

例えば人は、話し相手に何を言ってもいいわけではない。まともな人間なら、その人が不快にならないよう、ある程度気を付けて話すだろう。

僕にとっては、ブログや小説を書くのも同じことだ。役立つ情報である必要はないと思うが、最低限、人が不快にならない文章を書きたいと思う。僕の言葉で誰かが傷つくのは嫌だ。申し訳ない。
そして、その「最低限のライン」が、なぜかとても高く感じられるようになってきたのだった。


ブログだけでなく実生活でも

「そんなガタガタ言うなら、何も書かなきゃいいんじゃないの?」
という意見もあるだろう。
これはその通りだ。別にブログを書かなきゃいけない理由はない。
趣味でやっている小説だって、書かなきゃいけない理由はない。

ただ問題は、こうした思想がブログだけでなく僕の実生活にも波及しているところだ。

僕は、職場の人に政治の話をしない。読書の話をしない。美術館の話をしない。カレーの話をしない。
これらは全て、相手を不快にさせる可能性があるからだ。

勿論、親族にも、趣味で知り合った人にも、そういう話はしない。そもそも人と知り合うことに根源的恐怖がある。結果的に相手を不快にさせてしまうのではないか、という恐怖。

ここまでいくと、これは表現がどうという話ではない。
僕が生きるということだけで、他者(社会)に何らかの影響を与える。それ自体を恐れているのだ。

僕が会社に行くだけで、スーパーで買い物をするだけで、電車に乗るだけで、周囲の人々に、何かネガティブな気持ちにさせているのではないか。

僕の存在は、マイナスなのではないか。
僕が生き続けることは、マイナスなのではないか。


倫理的判断の前に、健康的な判断を

いや、大丈夫だ。分かっている。僕は分かっている。
こんな考え方は不健康で、簡単に言えば病気だということくらい分かっている。

不健康な考えは、行き過ぎると心身を病む。それはとても辛い。だから僕は、以下のように対策を打つことにした。


「僕が生き続けることがマイナスなのかどうか」という命題については、
はっきり言って、その真偽を問うことにあまり意味がない。
真偽ではなく、健康的な判断をするほうが(辛くなく生きることのほうが)、ずっと重要なのだ。


つまり、
「僕が生き続けることがマイナスなのかどうか」という問いに対し、健康的に生きるための答えは、

「僕が生きて活動することは、プラスであるはずだ と信じ続ける方が健康的だ」

ということになる。


つまり、僕が何かを書いたり、社会の中で生きていくことで他者に及ぼす影響について、
それがプラスかマイナスかは本来的に分からないけれども、
そうであれば、「プラスである」と信じ、またそうなるように努力し、生き続けるしかないということなのだ。


自分の活動はプラスである という立場に立てば

「僕が生き続けることは、プラスであるはずだ」と信じる立場に立てば、
これはもう、やるしかない、ということになる。

「出来るだけマイナスを減らそう」として社会との関係を断ち生きる方法は、ペースは落ちるにしろ罪悪が積もっていくだけでジリ貧だからだ。

だからそうではなく、僕の存在には、僕の行動にはきっと何かしらのプラスがあるのだと、プラスに繋がるのだと「信じる」ことが、
ものを発表する上での第一歩なのだと思う。

そういう想いがあるからこそ、この記事も何とか「投稿」ボタンを押すことが出来たのである。


おわりに

何とか明るくまとめられたかな?
本当は上記の内容は、ブログというよりも小説執筆に関して考えていたことなのだけど、恥ずかしいのでブログに関することとして書いた。


「人間の活動には価値があるのか?」といった問題の真偽については、悪いけど、もっと精神的な体力のある人に突き詰めて貰おうと思う。
僕はひとまず、自分の健康と実生活を守ることで精いっぱいだ。


という訳で、今後も最近食べた美味しいものとか、愚にもつかない小説を書いていければと思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。今後ともよしなに。

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