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100年前に答えは出ている
読書をすること、または学ぶことの意味を考えることがあるでしょう。
「なぜ学ぶのか」という問いへの答えの一つは、大抵の悩みや問題の答えは、百年以上も前に誰かが答えを出してくれているという事でしょう。
あなたの精神的な悩みや、人生への疑問はニーチェの「ツァラトゥストラはかく語り」にて答えが出されるかもしれないし、ブッダの言葉によって解消されるかもしれない。
キリストの教えに救われるかもしれないし、太宰治の文学によって救われるのかもしれない。
「愛とは何か」なんて、高校生や大学生の時代に考えた人間も多いかと思いますが、一人で考えていては堂々巡り。まるで答えが出ないようなテーマでも、百年さかのぼれば大抵それらしい答えが見つかるものです。
(個人的にはエーリッヒフロム著『愛するということ』がおすすめです。)
以前、他人の考えなんか知らないでも、自分で考えれば十分だという人に出会ったことがありますが、そういう理論は不死身の人間にしか成り立たないでしょう。
人生は有限。時間も有限。車輪の再発明をしている時間はありません。
数千年の歴史の先端まで偉人たちの頭の上を蹴上がり、自分で考えるのはその頂点からでいいのです。
百年も前の理屈なんて、今の時代には合わないと思う人もいるかもしれません。
それは正解でもあり、間違いでもあります。
昔の理論が後の時代に訂正されるのはよくあることです。
先に挙げたエーリッヒフロムの愛の理論は、フロイトの父性原理を主軸においている点で疑問が持たれていたり、かの有名なアインシュタインの相対性理論も、量子力学が登場してから「古典」物理学の烙印を捺されました。
だからと言って、歴史は価値を失いません。
そもそも、原理を人工的に作った上に合理的にしか話の進まない数学のような学問でもない限り、すべての理論というのはどこまで行っても「仮説」のようなものです。
その時代に受け入れられる理論というのは、どこまで行っても、一番「正しいような気がする」仮説なのです。
私たちの思考というのは、常にただ「正しいような気がする」ものを追い求めています。
だから、過去の歴史や理論が正しいか正しくないかそして、価値が在るのか無いのかという問いはナンセンスである。
私たちは「正しいような気がする」ものも、「正しくないような気がする」ものも、すべてを咀嚼して、自分の「正しいような気がする」理論を作り上げていく必要がある。
このふわふわした感覚を受け入れられない堅物人間は実に多いと思う。
そして、そういう人間は大抵、自分は「科学的」な人間だと勘違いしている人間が多い。
だが、ほんの少しでも学んだ人間は、科学というものが、理論というものがどれだけ曖昧な存在なのかを理解して、やがてそのあいまいさに慣れてくる。
曖昧さを学びましょう。曖昧に学びましょう。
文章が後半になって熱が入ってくると語尾が変わって、話している内容もめちゃくちゃになってくる、いつもの私の文章でした。
何か伝わるものがあれば幸いです。
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