見出し画像

「あれは私が作った」と主張することの代償 東浩紀『ゲンロン戦記』


2018年末、東浩紀氏は、株式会社ゲンロンの代表取締役を辞任した。
崩壊寸前だったゲンロンの劇的なV字回復が始まったのは、この時である。

一般に、会社経営のV字回復のドラマは、V字回復をさせた新社長を主人公として描かれる。
『ゲンロン戦記』がユニークなのは、V字回復の物語を、会社をダメにしてしまった旧社長を主人公として描いた点である。
Vという文字の、左半分を書いたのである。

本書では、ずさんな経営 --- 仕事内容も理解しないまま仕事を丸投げしたり、仲たがいしたり、社員に不満がたまったり、社員に逃げられたり、甘い見積もりと放漫経営で会社の資金が尽きて借金したり、といった、旧社長のダメっぷりが赤裸々に告白されているが、それでも創業してから8年も会社経営を続けられたことは、心からの尊敬に値する。

ゲンロンでは、出版事業、イベント開催、教育事業、オンライン動画配信事業などをやっているが、それらの書籍や動画放送のコンテンツが多くの顧客を惹きつけるのは、それらの多くが、東浩紀氏が編集やプロデューサーやクリエイターとして作り上げられたものだからだ。
顧客の多くは「あずまん(東浩紀氏の愛称)なら、なにか面白いことをやってくれるだろう」と思って、ゲンロンに集まってくるのだ。
東浩紀氏は哲学・思想畑出身の作家、批評家、インフルエンサー、有名人であり、このニッチな業界のコンテンツ産業のキーパーソンなのである。

だから、彼は、「自分が代表をやらなければゲンロンは成り立たない」と、ずっと信じて頑張ってきた。
それが、彼の眼に映っていた「世界」であった。
ところが、新社長に交代したとたんに、V字回復である。
自分が代表をしなければ成り立たないどころか、自分じゃない人が代表の方が、ゲンロンは上手くいくのである。

これは、映画『マトリックス』で、主人公が「世界」だと信じていたものは、実はコンピュータの作り出した虚構でしかなかった、と気づく瞬間に似ている。

東浩紀氏がずっと「世界」だと信じていたものは、実は、虚構だったのだ。
これが明らかになったときの衝撃たるや、当人以外には分かりようのないものだが、それをあえて描こうとしたのが、本書のすごいところである。

もちろん、自分の脳内に作られた「虚構の世界」を「世界そのもの」だと信じて生きているのは、東氏に限った話ではない。
私も、あなたも、そうなのだ。

人間は、世界そのものを認識することなどできない。
あなたが世界だと思っているものは、あなたが創造した、あなた独自の「世界解釈」なのである。
人間だれしも、世界解釈クリエイターなのだ。

その世界解釈は、たいてい、多くの認知バイアスによって歪んでいるが、ほとんどの場合、それに気づくことはない。
しかし、ごくまれに、東氏のように劇的な人生イベントが起きて、その歪みを思い知ることになる。

東氏は、自分の信じていた虚構の世界が崩壊し、世界が本当の姿を垣間見せたと感じているかもしれないが、まだまだ、彼の虚構世界は、崩壊しきっていない。

たとえば、本書の中で、東氏は「ゲンロンはぼくがつくった」と書いているが、これも一種の虚構であり、崩壊の可能性を孕んでいる。

というか、東氏に限らず、一般に、「○○は自分が作った」という言説は、たいてい虚構なのである。

たとえば、私が書いたということになっている『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』という本のタイトルは、私ではなく、編集者の横田大樹氏の作ったものだ。
さらに、その本の表紙も、編集者の横田大樹氏、ブックデザイナーの杉山健太郎氏、イラストレーターのヤギワタル氏と、私の合作である。
このタイトルと表紙がなければ、この本は12万部も売れなかったろうし、この本は、この本たりえなかった。
この本は、実際のところ、感情ヒューリスティックス、利用可能性ヒューリスティックス、認知的不協和の理論、後知恵バイアスなど、さまざまな認知バイアスを、誰にでも分かりやすく解説した「日本一やさしい認知バイアス入門」とでもいうような心理学の本であり、もっと硬くて真面目なタイトルや表紙にすることもありえた。
タイトルと表紙が違えば、本の印象は別物になり、読者層も変わり、社会に与える影響も変わる。
そうなると、もう、それはかなり別の本である。
ということは、タイトルと表紙を作っていないこの本の作者は、この本を作ったとは、とても言えないのではないだろうか。
さらに、本書の内容自体にも横田氏やヤギワタル氏のアイデアが取り込まれている。

また、この本がベストセラーになったのは、ダイヤモンド社の宣伝部や営業部の力によるところが大きい。
この本はベストセラー本であることが、そのアイデンティティの一部を形成している。
そして、この本をベストセラーにしたのは作者ではない。
ということは、この本を作ったのは、やはり、作者だとは言えなくなる。

結局、作者は、この本をこの本たらしめているための必要条件の一つでしかなく、作者が「この本は私が作った」と声高に言うことには、多分に欺瞞が含まれているのだ。

人が「○○は自分が作った」と主張するとき、たいていは、それができる「きっかけ」を自分が作り、その○○が出来上がるための重要な要素の一つが自分であるだけである。
「きっかけ」を作ることと、それ自体を作ることは別のことである。
それを作るための重要な要素の一つが自分であることと、それを自分が作ったかどうかも、別のことである。

だから、「○○は自分が作った」と、人が声高に主張するとき、そこには、たいていいくばくかの欺瞞が付きまとう。
その欺瞞は、その○○を作るのに尽力した多くの人々に対する、希釈された裏切りである。

この欺瞞が、人々をうっすらと嫌な気分にさせ、その嫌な気分は人々の意識の底に沈殿し、それが将来的にやっかいごとを引き起こす。

紀元前1世紀、ローマ軍を率いて空前の大征服を行い、現在のヨーロッパ世界のもとをつくったユリウス・カエサルは、金銭に関しては、気前よく功労者に分け与えたが、名誉に関しては、そうではなかった。
その後、カエサルがどんな運命を辿ったかは、みなさん、ご存じのとおりである。

東浩紀氏は、ゲンロンの稼ぎ頭としてたくさんのコンテンツを創り出し、その売上金でゲンロンを支えてきた。彼自身が、ゲンロンに搾取されてると感じるほどに。
しかし、彼は、本書の中で、ゲンロンは僕がつくったと主張するのだ。
その意味で、彼は、カエサルと同じ轍を踏んでいないか、心配になる。

やがて、カエサルに突きつけられた刃と同質のものが東氏に突きつけられ、彼が「… さん、あなたもか」と言うことになってしまわないことを、祈りたい。



筆者(ふろむだ)のツイッターはこちら


※この文章は、文章力クラブのみなさんに添削していただいて、出来上がりました。


P.S.  最近、科学的な学習法の本を書きました。第1巻は無料ですので、ご興味のある方は、そちらもどうぞ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?