竹宮惠子氏が萩尾望都氏にかけた盗作疑惑について
「あなたは私の作品を盗作したのではないのか?」
竹宮惠子が萩尾望都に言った。
1973年の早春、東京都杉並区下井草のOSマンションでの出来事だ。
ただしこれは萩尾氏の証言(※1)であって、それが事実かどうかは確認しようがない。
ショックを受けた萩尾氏は、ひどい不眠症と心因性視覚障害に陥った。
城章子氏は当時の萩尾氏の状態について以下のように書いている。
この件で竹宮氏は萩尾氏に以下のように告げたと言う(萩尾氏の証言)。
萩尾氏は、以降、半世紀にわたり、竹宮氏との交流を一切絶ち、かつ、竹宮氏の著作を一切読んでいないと言う。
『地球へ…』も『風と木の詩』も『イズァローン伝説』も読んでいないのだ。
ここで、なぜ私がこの記事を書くことにしたかを述べておくと、「盗作した/しない」というトラブルは、私のように本や記事やツイートを書く人間にとっては他人事ではないので、自分なりにこの事件の理解を整理しておきたかったからだ。
話を戻す。
萩尾氏の証言によれば、竹宮氏は、萩尾氏の『ポーの一族』シリーズの『小鳥の巣』の第1回目に、以下の要素が含まれている点を問題視した(※1)。
竹宮氏が下井草に引っ越す前、竹宮氏と萩尾氏は、東京都練馬区大泉にある2階建ての二軒長屋の片方を一緒に借りて、共同生活を送っていた。
家賃は折半。
そこには、大勢の少女漫画家や編集者やアシスタントが出入りしていて、大泉サロンと呼ばれていた。
漫画家たちはお互いの作品の原案を見せ合っていたという。
竹宮氏もスケッチブックに書いた『風と木の詩』の原案を、大勢の漫画家に見せて回っていた。
当然、その中に萩尾氏も含まれていた。
萩尾氏の反論は以下の通り(※1):
また、竹宮氏の『風と木の詩』は竹宮氏が言うところの「少年愛」の物語であり、少年愛に興味もなければ理解もできない萩尾がそれを盗作するはずがないではないか、というのが萩尾氏の主張だ。
これらの反論は、どの程度妥当なのだろうか?
少なくとも「男子寄宿舎」と「温室」については、問題視されるようなものではないと思われる。
なぜなら、萩尾氏と竹宮氏は一緒に『悲しみの天使』(映画)を見に行ったとある(※3)が、『悲しみの天使』には「男子寄宿舎」も「温室」も出てくるからだ。
それにしても、竹宮氏は「せっかく別々に暮らしてるのに前より悪くなった」と言ったようだが、いったい何が悪くなったのか?
普通に考えれば「書棚の本を読んでほしくない」と言うのも、意味不明だ。
本棚なんて盗作とは関係ないではないか。
いったい竹宮氏は何を恐れていたのか?
この謎を解く鍵の1つは、以下の城章子氏の証言に潜んでいるように思う。
そもそも漫画家というのは、常人とは比較にならないぐらいこの能力が高いことが多いが、萩尾氏のそれは同業者から見ても異質だったのではないか。サヴァン症候群の方にまれに見られるような、現実空間のオブジェクトの3次元コピーを瞬時に脳内に作って、自分の脳内素材ライブラリに追加して、いつでも自在に加工して作品内で使えるという、生まれつきの特殊能力なんだろうか。
一般には、作品原案を他の漫画家に見せて、多少要素をパクられることはあっても、たかがしれている。
だから、原案を他の漫画家に見せて回ることは、リスクよりもメリットの方が大きいだろう。
ただし、萩尾氏のような特殊能力を持つ漫画家に見せるとなると、話が違ってくる。
竹宮氏は、他の漫画家には自分の作品原案を見せて回りたいが、この特殊能力を持つ萩尾氏だけには、本当は見てほしくなかった。
見せた瞬間に、彼女の脳内素材ライブラリに自動的に登録されてしまうのだから。
だけど、萩尾氏にだけ見るのを禁止するわけにもいかず、見せたくないのに見せざるを得ない、という苦しい立場に、竹宮氏はあったのではないか。
また、最初は竹宮氏は、萩尾氏を同格、もしくは格下だと思っていたが、個性のはっきりした作風の作品を作り続けて安定した固定ファンがついてきている萩尾氏に比べると、当時の竹宮氏はまだ作風が安定せず、伸び悩んでいた。
ブランディングの教科書には、最初に新機能Aをプロダクトに盛り込んで売り出した企業ではなく、その機能を盛り込んだプロダクトを最初に広く世の中に認知させた企業が、その機能についてのブランドを獲得する、とある。
いまや、自分よりも格上となった萩尾氏が、竹宮氏のアイデアを盛り込んだ作品を発表すれば、そのアイデアは萩尾氏のものとして人々に認知されてしまう。
ということを、竹宮氏は恐れたのではないだろうか。
竹宮氏は萩尾氏に対して「嫉妬」していたからだ、と言う人もいるが、「嫉妬」よりも「追い抜かれた焦り」や「萩尾氏が竹宮氏の作品要素を取り入れた作品を先に発表することで、竹宮氏の作品を二番煎じにしてしまいかねないという恐れ」の方が、竹宮氏をあの行動へと駆り立てた主要因なのではないだろうか。
しかし、そもそも、『風と木の詩』の核心となるコンセプト自体が、どこまで竹宮氏のオリジナルと言えるのだろうか。
増山法恵氏が竹宮氏と出会わなければ『風と木の詩』という作品は生まれなかった。
『風と木の詩』を構成するアイデア要素には増山氏由来のものがけっこう含まれている。
「増山氏は竹宮氏のプロデューサー的役割を果たした」とか「増山氏は竹宮氏に大きな刺激を与えた」と言う人が多いが、そのどちらの表現も、ミスリーディングだと思う。
プロデューサーとは、ジブリの鈴木氏や『映像研には手を出すな!』の金森さやかのように、その作品がちゃんと商品として完成し、多くの読者に届けられることに責任を持つ人のことである。
しかし、増山氏は、そんな役割をやっていない。
彼女は、素晴らしい作品を作るのに必要なセンスと膨大な知識の引き出しを持っており、アイデアを出し、作品作りに口を出し、クリエーターが作った作品に容赦なくダメだしをし、方向性を大きく左右するが、「作品を完成させ、商品として多くの読者に届ける」ということに責任を持っていたわけではないのだ。
作品を完成させることに責任を持っていたのは竹宮氏であり、それを商品としてパッケージングして読者に届けることに責任を持っていたのは、担当編集者である。
また、これだけ作品のアイデアを出し、作品作りに口を出していた人を、単に「刺激を与えた人」と呼ぶのも違う。
興味深いのは、竹宮氏の代表作のほとんどが「竹宮惠子作」となっており、そこに増山氏の名前が出てこないことだ。
これについて、竹宮氏は以下のように証言している。
竹宮氏は「このころはまだ」と言っているが、今でも変わらないと思う。
原作付きのマンガを書いているマンガ家を、多くの読者は、無意識のうちに軽く見る。
だから、竹宮氏のクレジットに増山氏の名前が出ていたら、読者の竹宮氏に対する印象は、かなり違うものになってたのではないだろうか。
その意味で、増山氏の判断は正しかったとも言える。
竹宮氏は増山氏のアイデアをたくさん取り入れて、竹宮惠子が一人で作った作品であるかのように発表したが、これは、萩尾氏が、竹宮氏のスケッチブックから、「学校が川のそば」や「温室でバラ」などの設定要素を取り入れて、自分の作品として発表するのと、どこが違うのだろうか?
通常、他人のアイデアを自分の作品の中で使いたい場合、なるべくその人の許諾をとってから使うようにするものだ。
軽い口頭での許諾をこまめにやっているだけでも、意外と深刻な事態に陥ることを避けられたりもする。
もちろん、「学校が川のそば」や「温室でバラ」といった要素はありふれたものであり、そういう要素を作品中で使うのに、いちいち竹宮氏に仁義を切る必要はないという萩尾氏の主張もわかる。
しかし、「竹宮氏がアイデアを盗まれたと感じるリスクがある」ということを想定して行動していたら、事態が変わった可能性もある。
とくに、未発表の作品原案なら、発表済みの作品の何倍も気を遣わないと、トラブルになるリスクが高い。
実際、萩尾氏自身、萩尾氏の作品原稿に使った表現手法を竹宮氏が竹宮氏の作品に取り入れて、萩尾氏よりも先に発表してしまったために、読者から萩尾氏の方が竹宮氏の表現手法をパクったと言われて、いやな気分を味わった様子を本に書いている(※1)。
だから、竹宮氏が「盗まれた」と感じるリスクは、想像できてもおかしくはなかった。
ただ、人間という生き物は、自分の痛みには敏感だが、他人の痛みには鈍感である。
だから、自分が他人にされていやだったことを自分が他人にしてしまうリスクをあまり考えない。
このため、他人がされていやなことを、それと気づかずにしてしまいがちなのだ。
竹宮氏と増山氏は『風と木の詩』が少年愛の作品だと主張しつつも、その作品のオリジナリティが少年愛だけにあるわけではなく、「学校が川のそば」や「温室でバラ」なども含めたさまざまな構成要素の組み合わせによってその作品らしさ、すなわちオリジナリティや魅力を構成していることの自覚はあったのではないか。だからこそ、それらの要素を萩尾氏が取り入れて『ポーの一族』を発表したとき、自分たちのオリジナリティの一部が盗まれたかのように感じて、とっさに「防衛措置」を講じたのではないだろうか。
そう考えると、「書棚の本を読んでほしくない」というセリフの謎も解ける。
作品を作り上げるという作業は、その資料集めから始まっている。資料集めは創作行為の一部なのだ。
竹宮氏と増山氏が自分の作品を作るために集めた資料の詰まった本棚は、彼女たちがこれから作ろうとしている作品のオリジナリティを構成する要素の一部なのだ。
それを萩尾氏の特殊能力で自動的に脳内素材ライブラリに吸収されて、萩尾氏がそれを作品に書きまくれば、そのオリジナリティが読者たちに「消費」されてしまって、竹宮氏たちがその資料を使って作品を出したときには、読者に対する新鮮味が薄れてしまうではないか。
そう考えると、萩尾氏の「私の作品は少年愛がテーマではないから」という言い分が微妙なように思えるのだ。
「少年愛の作品でなければ、他人の未発表の少年愛作品の構成要素を無断で使用しても問題ない」というロジックは成り立たない。
一方、竹宮氏の「盗作された」という主張も、いささか被害妄想のように感じる。
なぜなら、萩尾氏の『ポーの一族』も竹宮氏の『風と木の詩』も、私が中学生の時に古本屋で母親が買ってきて読んだのだが、それらが似ていると思った記憶は皆無だからだ。むしろ、それぞれ、全然別の強烈な印象を僕の中に残した。
その意味で、竹宮氏が、未発表作品を構成する部品要素を先に萩尾氏の作品に使われたからといって、竹宮氏はとくに損害を被ったわけではないと思う。
だから、問題は、竹宮氏の経済的な損害ではない。
名誉が毀損されたわけでもない。
もちろん、法律的にも問題ない。
じゃあ、何が問題かというと、消去法で考えて、気遣いと仁義とコミュニケーションくらいしか残らない。
では、もし萩尾氏と竹宮氏が、以下のように腹を割って交渉していれば、これほど深刻な破局には至らなかった可能性はあるだろうか?
おそらく、それは大きすぎる「もし」だ。
なぜなら、当時の萩尾氏も竹宮氏もそんなキャラではなかったし、そんな交渉ができるようなコミュ力もなかった。そもそも、さんざん修羅場をくぐってきた社会人歴の長い大人たちですら性懲りもなくこの手の失敗を繰り返すというのに、まだ少女の面影を残す当時の彼女たちがそれをやらなかったことを、誰が責められようか。
この手の交渉力は、失敗を重ねながら少しずつ学んでいくものである。
ところが萩尾氏は「社会人」というゲームを開始してすぐ、ろくにこの手のことを学ぶ機会も与えられぬまま、いきなり初見殺しの地雷を踏んで、半世紀過ぎてなお癒えない傷を負ってしまった悲運の人なのである。
また、竹宮氏にとっても萩尾氏の特殊能力は初見殺しだったろう。そんな能力を持っていると知っていたら大泉で共同生活を始めなかったかもしれないが、それを事前に知ることはできなかった。
人間は初見殺しの罠を避けることはだいたいできないし、初見殺しの罠で一生を左右するほどの酷い傷を負ってしまうこともあるのだ。
初見殺しの罠で取り返しのつく程度の怪我しか負わなかった人たちは、単に幸運だったに過ぎない。
結局、彼女たちが惹かれ合って共同生活を始めたとき、その共同生活そのものに必然的に地雷が埋まっていたし、彼女たちはその地雷を予見するすべを持たなかった。だからあの結末は、避けようのない悲劇だったのではないだろうか。
何より、歴史にifはない。
最後に、これらの話が書かれている竹宮惠子『少年の名はジルベール』と萩尾望都『一度きりの大泉の話』という本には、たくさんの登場人物がでてくるが、その多くは、僕が子供の頃に何十回も繰り返し読んだ作品の著者の方で、「あれらの作品の作者たちにはこんな側面もあったのか」と大変興味深く読ませていただいた。
当時の僕の精神に溶け込み、僕という人格の一部を形作る元となった、それらの作品を書かれた方々に、心からの敬意と感謝を捧げることで、この話を終わりたい。
筆者(ふろむだ)のツイッターはこちら。
出典&引用元:
※1 萩尾望都『一度きりの大泉の話』
※2 竹宮惠子『少年の名はジルベール』
※3 Wkipedia『大泉サロン』は根拠として萩尾望都他『文藝別冊〔総特集〕萩尾望都 少女マンガ界の偉大なる母』を挙げている。
※ この記事は、面白文章力クラブのみなさんにレビューしていただき、いただいたアドバイスやアイデアを取り込んで書かれました。