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第98〜甲子園〜

9回裏2アウト、最後のバッターは惜しくも三振に倒れる。ピッチャーの投球は低めでバウンドし、キャッチャーは体で制した。ミットからはボールがこぼれているため、振り逃げ扱いとなる。そのためバッターは一塁へ向かってダッシュするも、キャッチャーからファーストへの送球は悠々と間に合いアウトだ。しかし、ボールはとっくにファーストに送られているにもかかわらず、バッターは一塁ベースに向かってヘッドスライディングをした。その最後まで諦めない姿勢が、観客の胸を突く。

最後の打者のヘッドスライディングはもはや高校野球の恒例であるが、アウトが決まっている以上は、どう見ても無駄である。が、その無駄を見て人は感動する。野球ファンの幼馴染は、「高校野球でしか得られない栄養がある」と言っていた。

無駄でしかないヘッドスライディングを見て、なぜ人は心を動かされるのか。

「受験勉強」とは、「受験の勉強」でもなければ「受験を勉強する」のでもない。言葉の省略を正しく補うならばそれは、「受験のためのヽヽヽ勉強」になろう。「ための」という言葉は「目的」を意味する。「目的」とは、常に「手段」という言葉を共に連れてくる。したがって「受験勉強」とは、「受験を目的とした手段としての勉強」ということになる。手段とは、目的に服従した関係でしか存在できない。

ヘッドスライディングとは、僅かでも速く塁へ到達するための手段のはずであるが、そうであるならば、あのヘッドスライディングは、セーフになるための手段ではなくなっているだろう。手段が目的から解き放たれてあるとき、それは即ち従属からの解放を意味する。何ものにも服従していない状態のことを「自立」と言う。

アウトかセーフかというような結果に拘泥することなく、それから解き放たれてあるという自立した姿が、観衆の心に爽快感を与えるのだろう。

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