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第102〜仕事に行きたくありません〜

レベルの高い学生に教えたいという気持ちが、お盆休みの帰省を経て一気に膨れ上がって来ている。

確かドゥルーズであったか、「講義とはロックのコンサートだ」と言ったのは。その比喩の意味は詳しく知らないが、もしそれが、「講義とはその内容如何ではなく、そこに魂と全情熱を注ぎ込むことだ」というような意味であるならば、私はドゥルーズに心から感謝する。講義なぞ涼しい顔でするものではない。知っている者が知らぬ者の上に立ち安住するようでは、ただ知的に振る舞って見せるだけでは、そんな講義は誰の人生も変えまい。その場の一回性の時間と空間を共有する、言うならば「宇宙」の実現こそが真の講義である。


芸術のための芸術、勉強のための勉強。何かのためにあるのではない。手段の自己目的化である。決して服従せぬ自立。

目的が既に固定されていて、後はその達成にこそあらん限りの全力を注ぎ込むのだとしたら、そこには確かな危険が潜んでいる。重要な問いが欠落してしまうからだ。即ち、今達成しようとしているその目的に、本当に価値があるのかという問いである。その問いを失うとき、目的を相対化するという態度を喪失する。

受験のための勉強の危うさはそこにある。合格という目的を固定しそれにのみ価値を認めるならば、反対に不合格とは価値の無いものだということになろう。しかし、それでは落ちた奴らが救われないではないか。それでも落ちる奴が不可避的に出てくる以上、不合格の価値を考えてやることさえも、大人の責任なのではないのか。

目的の達成のみを価値と見做し、それに従って手段の追求にのみ勤しむならば、そこでの手段は目的に順応せねばならず、とことん合理化される他はない。が、もし我々の人生が目的に対する合理性の追求ならば、人間は一個の動物か、機械装置でしかなくなるだろう。

しかしその時、人間は真に人間として生きているとは言えない。目的への服従から解放された存在として人間を位置付けるために、芸術があり学問があるのである。即ち、救済である。

そもそも、生きることもそうだろう。何かのために生きるのであれば、それを目的として人生そのものが手段化する。すると、仮に目的を喪失した場合、目的に従属した関係でしか存在できない手段もまた、同時に失われる道理である。

自殺を真剣に考えて実行寸前に至ったあの頃の私にとって、人生とは手段であった。この人のために生きていきたいと願い、この人のために生きていくのが私の人生の幸福に違いないと信じ、しかしその念願は果たして叶わぬという状況に立たされた瞬間、私の人生は無意味化した。この人のために生きていけぬのならば、そのような人生に価値などあるまい。

辛いから死にたいのではない。意味がないから虚しくなって、その虚しさに耐えられないから死にたかったのである。また同じ思いに陥ることになるのが、怖くて堪らない。虚しいという思いもそうだが、この人よりも愛せる人に出会ってしまうことが恐ろしいのである。この人が自分の人生の1番ではなくなってしまうことに、耐えられそうにないのである。それが大学生の頃のことであった。

そして今、同じ恐怖に襲われてどうにもならない。


大学生活が忘れられない。やはりこれもまた愛する記憶だからであろう。小学校とも中学校とも高等学校とも、まるで異なる意味を持った時期が大学生活である。これほどかけがけのない時間は他にない。


ある学生2人と遭遇し、1人は東大を、もう1人は筑波大を受けると報告を受けた。どちらも関東へ行くことに決めていて、その訳について、「関東へ行けば、先生にお会いできるから」と言ってくれた。こんなことを言ってくれる学生に巡り会えて、私はつくづく幸せ者であると思わせてくれた。


写真を撮る。それは好意の表れである。過去形を現在形のまま保存しようとしているのだろう。

写真をずっと永遠に見返している。時間ばかりが過ぎていく。今日もこんな時間だ。写真を見返している間、私は幸福でいられる。


嗚呼、私は知性も教養もない人間だ。こうしてセンチメンタルに愚弄されているのだから。理性によって自立することは、もうしばらくの間できそうにない。

こんなとき、話のわかる人が身近に1人でもいてくれれば、状況は違ってくるのだろう。しかしそんな人は、少なくとも身近になど1人もいなければ、世の中にそういるものでもない。

人との出会いは、どこまでも貴重でかけがえのないものだ。そして、そういう人と出会うのが難しいというところに、出会いの尊さがある。

教師になって4年目。これまでの3年間は、毎年1人は面白い人がいた。すごい人や知的な人は片手に収まる。しかし今年は、面白い人もすごい人も、1人もいない。

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