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第106〜レールはその手で〜

国家的に用意されたレールの上を無思考に滑り続けてきた人に面白い授業はできるのか。多感すぎるほど多感な青少年らを触発するような話はできるのか。

人生はザラついている。そのザラついた手触りを知ってこそ有意義な人生だろう。必ずしも順潮ならざる人生を歩むがゆえの摩擦による抵抗は、前進しようとする私たちを引き留め、そこで立ち止まって私たちに思考することを促す。その思考は確かに煩悶や苦悩に満ちているだろう。が、その混沌に向き合うときこそが、理性の立ち上がる瞬間なのである。理性は混沌に秩序を与え、我々を混沌から救済するのである。

用意されたヽヽヽレールということは、それは自ら敷いたレールではないということだ。その誰かによって敷かれたレールの上をなぞるようにしてツルツルと滑っていくとき、それは本当に自分の人生を生きていると言えるのか。そして、自分の人生を生きてこなかった人間に、「自分の言葉」を獲得できようか。「自分の言葉」を持たぬ人間の言葉に魂は篭ろうか。そんな言葉で、青少年たちは果たして触発を受けるだろうか。

言葉によって語ることを本分とする教師は、言葉に力がなくてはならない。魅力的な教師かどうかの分かれ目は、その教師が持つ言葉にこそある。そしてその言葉とは、その教師自身の人生そのものにかかっている。したがって教師の魅力は、その教師が生きて来た人生の魅力そのものだ。


何事も基礎基本が重要だとするならば、そして教育の基本が人間をつくることだとするならば、その基本を失った教育は虚無と化すだろう。そして、現代の世の中に、その基本を失った虚無的な教育がいかに多いかということを考えなくてはならない。


昨日と今日に限っては、授業に幾許かの充実があったかもしれない。ひとえにメンタリティの変化である。久しぶりに辛くなって、自分の胸の鼓動が常に聞こえるような生活を送っている。授業がexpressionとしてある以上、切実なimpressionがあってこそそれは充実したものになる。私は感謝しなくてはならない。

近代芸術の原理としてある手段の自己目的化に関する雑談を昨日したときは、学生諸君の表情が決定的に変容した。見たことのないほど熱心な視線の集中がそこにあり、その反応によってこちらもつい熱がこもった。芸術のための芸術であるように、勉強のための勉強に変えていくのだ。受験という目的に服従した手段としての勉強ではない。学ぶことそれ自体が面白いという自立へ向かうことだ。決して服従してくれるな。そんなメッセージを送った翌日、その話に熱心に耳を傾けていた連中が全員、早い時間から自習室に来ていた。

無論すべての教室でそう行くわけではない。私の話を聞かずにスマホをいじる奴が数名いるクラスもあれば、私がハナから雑談をしないで解説のみに集中するクラスもあるし、余計な話をしながら解説をしている最中に模範解答を見て自分でマル付けをしている生徒のいるクラスもある。

それをどうこうとは思わない。具体的な人生背景を持って生きて来た個人の集合体である教室という空間において、その個人の目に映る光景は、同じ光景であってもそれぞれに意味が異なる。我々の生きる人生は常に多義的だ。であれば、そこに集まる全員にとって私の授業が1つの意味に定まるはずもない。私の師匠の授業でさえ、あれだけの偉大な授業でさえ、内職をする奴はいたわけだ。「人それぞれ」というありふれた言葉は真理だ。真理はいつも、シンプルな言葉で表される。

それでも、私の口から次の瞬間に発せられようとするひと言を常に待ち構えているような教室もある。台本のないお喋りのスリリングさに興味が湧き立ち、ひょっとして些かの感動を伴っているかのように見える瞬間さえある。

技巧は人を感動させない。上手にやりさえすれば心が揺さぶられるというほど人間は甘くない。私のような若造に授業の腕などあるはずもないのに心が動く学生のいるのは、私の授業の技巧ゆえではあるまい。やはりexpressionという自己の発露であろう。

そして改めて、惨めな私のような人間に、切実極まるimpressionを授けてくれた学生に感謝の思いが尽きない。私の教師人生の出発点にいてくれた学生らとの再会には、かけがえのない意味がある。

春に異動してから今日まで、必死に授業をして来た。教室は変わった。確実に変わった。どうしようもなかった教室が、どうにかなりそうな教室くらいには。途中何度も挫けたが、喋り続けてきてよかった。やはり、雑談で教室を変えるというスタイルを、そう易々と放棄することはできそうにない。

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