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第109〜教室を作る努力をしろ〜

今日もまた30分雑談をしてしまった。というのも、雑談のみで終わってもいいという声が開始冒頭で飛び出てしまい、つい調子に乗ってしまったのである。

今日はたまたま『徒然草』を扱う日で、しかも死についてのテーマであったこともあり、となるとやはり第155段の話をせねばならず、

四季はなほ定まれる序あり。死期は序を待たず。死は前よりしも来らず。かねて後ろに迫れり。人皆死ある事を知りて、待つ事しかも急ならざるに、覚えずして来る。

についての話に展開してしまった。

そのせいで、仙台駅のペデストリアンデッキで落としたティッシュを拾ってもらった話や、ドリフの「志村、後ろ後ろ!」や、廊下スライディングなどの雑談を長々としてしまった。

いやいやその前に、私がなぜ雑談するのかというその理由について、1969年の東大入試中止に象徴される学生運動の影響と、その後の予備校の歴史についてさえ喋ってしまった。どうでもいい話だ。それでも今日は、教室のすべての学生が終始こちらを真剣に見続けてくれた。こうして、合理的な授業から青少年諸君が解放されていく過程そのものが、真に人間を作るはずだ。

傲慢であるに違いないが、私の理想は、私の雑談を聞くためだけに塾に来るという学生で満ち溢れた教室を作ることである。こんなに傲慢なことはない。しかしひょっとしてそれを実現できるかもしれない。そんな予感を得た。ただ、こんなことで浮ついているようではいずれ足元を掬われるので、今一度謙虚にならなくてはならない。所詮はどうでもいい話だ。肝心なことは、「自分を主張せずして己を語る」ということだ。小林秀雄の批評そのものである。

ドゥルーズの、「講義はロックのコンサートだ」を知ってから、それがずっと頭の中にあって、喋りながらでさえそれを思い出す。ロックの魂で喋ってやろうと思う。それを皆、案外よく聞いてくださる。

必要な技能を効果的に伝達するだけの授業をするつもりは少しもない。もしそうなれば私の授業は、点数のための単なる手段と化すだろう。そうではなく、そんな枠組みは抜きにして、話を聞くのがただ面白いという純粋な動機を皆に持って欲しい。その態度そのものが、読解力そのものを支える力になるからである。点数のために聞かない。同じく、解くために読まない。

講習はいいなあと思う。10数回の授業をほとんど連続して受けることになるという状況のおかげで、私の授業に対する慣れ方が変わってくる。週1回の授業ではこういう空気にはならなかっただろう。


3日ほど前、朝起きたら前歯に激痛が走った。しかし私の前歯は既に神経を摘出してセラミックを被せた作り物だ。痛むわけもない。

そもそも前歯の治療をした大学1年の夏、終了後に「どうですか」と聞かれ、実は少し痛んだので、「ちょっと痛いです」と答えた。が、その歯科助手は「神経を取っているので痛いはずはないと思うんですが」と返答してきた。そういうものか、私の勘違いかと自分を納得させてその場は過ごしたが、歯がぶつかるたびに若干の痛みを伴うのであった。

そして7年だか8年だかそれくらい経って、ここに来て激痛である。ひょっとして神経がごく僅か残ったままなのではないだろうか。尤もセラミックもそろそろ寿命を迎える頃だ。次はインプラントにして万全の治療をしてやろうと思い続けてきたが、その頃までには金が溜まっているだろうと見込んでいたが、残念無念、金は無いままだ。もしこのセラミックが駄目になったら私は前歯を4本欠いた状態で生活しなくてはならない。いよいよ、人前で喋る商売として致命的になる。

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