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第105〜舐めんな〜

「わかりやすさ」をアピールするような授業が昔から大嫌いである。これは教師になって授業をする側になってからだけではない。授業を受けていた学生の頃から変わらぬ思いである。

尤も、わかりにくい授業が好きだったというわけではない。わかりにくい授業というのは、教師自身の理解が足りないか、或いは教師の頭が足りないかである。教えている教師自身がよくわかっていないと、その授業はどうしたってわかりにくくなるに決まっている。

反対に、教師自身が教える内容を深く理解している授業は、たとえ難解な内容を扱おうとも、「わかりにくい」というだけの感想に終わることはない。

わかりやすいことを前面に押し出す授業が嫌いだったのは、何だかこちら側を侮っているような気がしたからである。即ち、「わかりやすさ」が嫌いなのではなく、「わかりやすくしてあげよう」という侮蔑にこそ、苛立ちの原因があるのである。例えば「初学者向け」や「子供向け」や「低学年向け」として階級を下げることだ。授業という音声であれば、喋り方も低年齢向けに変えたりする。しかし、それで却って腹を立てる生徒もいる。無論、精神年齢の高い生徒に限られる。そういう奴にわかってもらえればそれでよい。そもそも、わかりやすくしようとしなければわかりやすくならない授業など、そもそもろくな教師の授業ではない。

私は、小学生も中学生も高校生も浪人生も全てを担当したが、その全てで口調をほとんど変えていない。それでも全ての階級で、私の授業を徹底的に楽しんでくれる奴が必ず現れる。私には私の、言葉に対する魂の込め方がある。それがきっと伝わっているのだと信じている。


もうあれから1週間が経つ。こんなに早い時間の経過は生まれて初めてである。

私は何も言わないことに決めた。どうあっても関係が続くうちは生きていられるからだ。いつになるかはわからずとも、次また会えるときのために生きていようと思えるからである。生きてさえいれば、たとえどれだけの苦痛に我を失おうとも、その代わりに幸福もまた与えてもらえる。生きているから苦痛を経験するのだが、それと同じく、生きていなければ幸福を味わうこともできない。幸福でありたければ苦痛を引き受けねばならぬ。幸福も苦痛も、生きていなければならぬ。

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