見出し画像

第100〜我々は、恋に恋する〜

お盆休み連日連夜の飲み食いによって、現在もなお身体の調子は回復していない。15日を最後の休日として、もう後は夏期講習へと回帰しなければならないわけであるが、そこまでにどこまで調子を取り戻せるか。予習もしなくてはならないが、安静こそ第一でもある。さらに、あの3日間の尊い記憶が、今も私を掴んで離さない。これから先もしばらくはそうであろう。

記憶は過去のものであり、過去とは文字通り既に過ぎ去ってしまったもののはずである。そして、近代という時代における時間が、年間を365等分に均質化し、ある始まりから終わりまでを直線的・不可逆的に進行していくという性格を持つのであれば、記憶を「思い出す」という行為は、過去を現在に再生しようとしているという点において、近代的な時間に逆らった行為であると言える。それは、時間の不可逆的進行対する抵抗運動である。

なぜ人は、記憶を思い出すことをするのか。それは、その記憶を愛しているからであろう。愛する記憶だけを、思い出すという行為によって救済しようとするからであろう。

愛とは常に現在形でしか有り得ない。先週会った(過去形)恋人を抱擁する(現在形)こともできなければ、来月生まれてくる(未来形)子供に感謝を伝える(現在形)もできないように。常に今この瞬間でしか、愛は具現されないのである。

しかし残念ながら、現在という時間は忽ち過去へと回収されてしまう。

寝ても覚めてもその人のことが愛おしく頭から離れない。その状態を「恋」と言うのだろう。「恋」とは元来「戀」と書くように、そもそも「痙攣」の「攣」の字に「心」を付けたものであるが、この文字は「引っ張られる」ことを意味するらしい。であればやはり、思い出すという言葉の意味に通じる。

あの時愛した(過去形)記憶を、戀する(現在形)ことで現在に引っ張って来ている。我々は戀愛に際して、記憶の痙攣を起こしているのである。

愛が現在形でしか有り得ないのであれば、過去になってしまった時点でそれは既に愛そのものではない。しかし、過去形になってしまえばもうそれは愛でなくなるということには耐えられないから、それを過去形ではなくしようとする。そうして過去を現在として救済しようとする行為のことを、「思い出す」と言うのである。

愛という現在を、うっかり過去のものに転じてしまいかねないその愛を、思い出すことによって永遠の現在としてあらしめ続けようとする切実な営みがそこにある。だから我々は、必死に思い出すのである。

クローチェは「すべての歴史は現代史である」と言い、小林秀雄は「歴史は思い出すことだ」と言ったが、2人の発言は恋愛という文脈での発言ではないにせよ、同じことが戀愛にも言えるだろう。人間は、愛によって生きるのである。何も狭義に考えなくともよい。例えば死者との記憶も、かかる意味においては戀愛だ。私は、祖父に愛された記憶をよく思い出すが、それは私が祖父のことを愛しているからである。過去形になってしまった死者を、現在の裡に蘇らせているのである。したがって、祖父は私の中に今でも生き続けている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?