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第46〜明日は今日よりきっと〜

今年も暑くなってきた。いよいよTUBEを解禁したところだ。毎年1番良いと思って聞くのは「Purity」と「風に揺れるTomorrow」である。


あれもダメこれもダメと言われ、いよいよ授業は無口になってしまうのではないかと思うほど、たくさんの規制に縛られている。それにしても、時代の流れを口実にして実際は世間体に怯えているだけの意気地なしから来る防衛反応であるからあまり納得が行かない。

もう教育にならない気がしている。教育が成立する土壌さえ作れない。私の様な人間が排除の対象となり、理解を示す学生が全くいないどころか、理解しようと努力する学生さえいないのだとすると、いよいよ教育は、子供を否定しない生半可なお遊びに転じているのではないか。私だけが浮いてしまうということは、その様な状況があちらこちらに蔓延しているのかも知れない。

しかし私が自分で正しいと信ずる教育が本当に正しいのかなど、どうしようと客観的には証明のしようがない。それゆえ私の教育の信念は、私が自分で信じてやらない限り、忽ち誤謬へと転じる他なくなるのである。支えは自分しかない。

教師になってわずか4年目であるが、毎年、今が最も苦しいと思ってやらねばならない状況で、このままでは来年、再来年と進むたびにますます悪くなっていくのではないかという悲観主義に陥っている。

しかし、未来は明るいものだとして、これからはどんどん良くなっていくのだと楽観するのは、高度成長期の日本の価値観だろう。未来どころか、今日よりも明日は必ず良くなっているということを疑わずに生活していたと、当時を回顧している人もいる。しかし実際はそうはいかないに決まっている。だが、良くなり続ける未来などありはしないのだということに気づいたのは高度成長の終わり、すなわち1973年のオイルショックにおいてではないだろう。その20年ほど後のバブル崩壊に始まる経済停滞によって初めて実感したのではないか。

どちらにせよ、危機というものをそれが起きてからやっと気づいているには変わりない。しかし、まさしく現在進行形で成長を達成していると思い込んでいるその最中にこそ、衰亡の種子は既に芽を出しているのである。衰亡とはいつもそうやっめ訪れるものだ。


こちらへ来てから、私は怖いと専らの評判であるそうだ。それを寧ろイジられて来たくらいだから、若干のショックを受けずにいない。しかしそうして振り返ってみると、私をイジってきた学生は優秀だったのだと思わされる。そこに自立があるからだ。

恐怖とは対象への服従である。服従とは自立を喪失しているがゆえにもたらされる精神状態である。私を怖いと思うのは、私への服従を意味している。しかし私をイジるということは、私に服従せずして相対化するだけの精神を持っているということだ。その精神が、学業の優秀にも繋がっている。勉強は自立だからである。

誰も子供を否定しない。それは子供の未来を閉塞へ導いてしまうのではないかという恐れから来ている様に見える。私はダメなことをダメと厳然と告げるが、私は未来を否定しているのではない。寧ろその逆だ。私が否定しているのは青少年らの未来ではなく現実である。そしてその現実を否定することによって却って未来を解放しているのである。現実を否定せずしてどうやって未来が開かれてくるというのか。今の自分のままでよいのだとしたら、別に未来のことなどわざわざ考える必要もあるまい。

しかし大衆はそうではないらしい。誰も彼らの現実を否定してやらない。しかしその現実を否定してやらないということが、実は却って未来を閉塞へ導いているのだということを、誰もわかっていない様である。否定のない肯定など、単なる甘やかしでしかない。現状の自分ではいられないからこそ学ぶのではないのか。否定のない自立など、どうして果たせようか。

まあよろしい。早いところ高校の教師になれる様にしようと思う。しかしそうなったら今度は社会科を教えることになる。やったことのないことをゼロからやらなくてはならない。するとまた、今まで以上に辛い日々が待っているということだ。楽しみである。かかってくればいい。

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