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第102〜狂え、この世は夢だ〜

ダメだ、授業中でさえ頭の中が占領され朦朧としてしまう瞬間がある。ここまで酷い状況に陥ったのは初めてだ。思い出が、記憶が、私を虜にして我を失わせる。意識半分、半ば放心状態で喋ってしまう。

いや、かかる状況は本来なら幸せをもたらし、相手への没入感は充実の最高潮を感じさせるはずだろう。だのに今は、苦しくて仕方がない。

もしこれが、届かぬ思いの一方通行から来ているならば、そして恐らくそうであるに違いないのだが、それは私のエゴイズムでしかあるまい。

エゴイズムの克服ということが、私の大学生活のある一時期における確かに一貫したテーマなのであった。それは未熟な私には余りにも大きすぎる課題なのであって、とても克服など能わず、自分の巨大なエゴイズムに飲み込まれるようにして我を失っていたのであった。

よく思い出すならば、あの頃はまともに歩くことさえできなかったのではなかったか。キャンパスでもうつむきながら、まさしく牛の歩みのごとくとぼとぼと、5分で帰宅できるはずの道のりを30分以上かけて帰っていた。その足取りでロープを買いに行き、締め方を調べ、遺書を書いたのであった。

この先のことは一切、私の決断した行動にかかっている。何も言わず手を出さないという消極的な態度を守るならば、長く持続した関係を保持できるかもしれない。そのときの苦しみは、関係が終わることの巨大な絶望に比べれば誠に小さなものだろう。しかし、関係が続く間だけ苦しみも続くのである。私は、じわじわと真綿で首を締め続けられるしかない。しかしそれでは、いずれそれに耐え切れなくなって白状してしまうかもしれない。

真綿で首を締められるか、自ら首を絞めるか。即ち、小さな苦しみと共に生きながらえるか、巨大な苦しみを伴って終わりにするか。何年かに一回は、こんな選択を迫られる。

しかし、そもそもこの二者択一でしか考えられない自分の思考そのものを発展させねばなるまいか。今はできそうにもないが、もしそれが可能になるならば、私には新たな救済の道が開かれよう。とにかく、哲学する以外に道はないということだ。

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