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雨は全てを

雨は全てを洗い流してくれる。

雨は激しく降る程に視界を消してくれる。

ここに在りながら誰の視界にも入らない事が可能となる。

だから雨降りの日は傘を持たずに外に出る。

雨に打たれていると鎮まる。

雨に打たれていると歓喜する。

降っている時にもっとも効力を発揮する水、雨。

流れる時もっとも強い水とも異なる。

あらゆるものが洗い流されていくのを感じる。

肩の荷が降り、全てが解放される。

呼吸が深まる。

全てが洗われていく。

V字構造の溝にそっと爪先を差し込む。

そして爪先で水溜りを泳ぐとシュワっともスワッともズワっともつかない、

言葉にし難い得もいわれぬ音がする。

飛沫が立たぬよう気泡が出来ぬようそろりそろりと慎重に水を斬る。

そんなダンスをし。

肩や顔に降り掛かる雨の音をきく。

バタっともビタっともザザっともつかない得もいわれぬ音が連なり心身に沁み渡る。

雨と体温が混ざる。

雨は私で私が雨。

個であり決して孤ではないという感覚。

傘を持たねば雨は結構痛いもの。

目を開けていられない程の雨が降る。

雨の中にただただこの身ひとつで立ち尽くすことは子どもの頃の私の至福の時だった。

雨が降ったら駆け出す。

心が湧く。

駆け出せない日には日がな一日窓辺に座って飽くことなく雨降りを眺める。

歓喜や甘露とは私にとって雨だった。

長じても私のこの感覚や水に親しむことを好む質は残り続け。

手を洗う、浴槽に浸かるといったことを本気で心底レジャーや最大のエンタメとも感じていて。

ずっとそれがどんなに至福で贅沢な時間かをわかって欲しいのではなかった。

共感とは、

同じ経験に頷くこと以外にも、核となる部分があるはずで。

そんなこと、それくらい、私の方が、そうやって被せることの双方の苦しさは個人的なことから社会的なことまで一体いつまで続くのか。
もう流石に頃合いです。

そう思ってコツコツと個人的なものを断つ、繋ぐ。
不器用ながらもやる。
私もあなたも丁寧にこれをしている。

人と違うことは当たり前のこと。
私がそれを自分自身へとうまく使いこなし、言い聞かせ、自分と手を繋ぐことができないことが長らく私の心を痛めたのかもしれません。

同時にそれらを馬鹿にしたり軽んじたり揶揄うひとたちと手を取り合うことはもうしないと決めた。

決めるのが遅かったことさえ、瑣末な事。

わかったんだからそれが全てだし、わからない事もまたいい。

自分の感性と一生仲良く手を取り合い、時々に応じて伸びたい方へ共に歩を進める。

仲間はいつだって現れます。いつだって傍にいる。

喧嘩をしてしまったのは私と私です。

私であっても私の感性を理解し切ることなど到底出来ない。

だから生涯に渡って日々、変わりいく心模様、変わらない想いへと耳を傾けて話をし心を注ぎ、手をかけていくことを知る。

あなたってこうだね、こうかしら、と確信を深めたり新たなる可能性を囁いてくれるあなたの声を聴く。

楽しく笑い合いたい私はどんな理由であろうとも嘲笑する人の手はもう握らない。
それが例え自分であったとしても同じこと。

繋ぐものを違えればどのような事になるのか、私はそれを体験として知っている。

断つ、繋ぐ、ぐるりと巡る。縷々と流れる。燦々と輝く。連綿と続く。

それぞれに違った宝を輝かせるとはきっとそういうことだと思う。

そして私は長年私をやってきて、大変だったけどやっぱり私でよかったと思います。



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