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耳の痛い話イコール?・愉快な仲間

耳千切れそうだよ、グエっ。
となる程響くことを言うひとというのは人生に数人しか現れない説を唱えている私です。

おはようございます。bpmです。
初めましてでもお馴染みでも。
親愛なるあらゆるあなたへこれを綴ります。
私からあなたへのお取り継ぎをお願い致します。
そんな通信です。

いつにも増して長いですが、スッキリ度が高い話です。

少し前にこんな記事を書きました。

「どこが痛いのか問題」について話しています。

図星を突く、や

核心を突く、とは申しますが。

それらは私にとっては心が痛くはあっても耳は痛くならない。

それらと全く毛色が異なるのが、私にとっての耳の痛い話をするひと、の存在そのものです。

これは生きていく中で必須。
どれだけ巡り合うかはもう、自分次第。
私とあなたの腕一本で叩き上げる。

話が逸れましたが。
つまり私にとってのそこの部分の感覚がとても近いということに他なりません。

近似値。

それを言うひとはもれなく、「しぬほどわかるわーーー」と首が捥げる程頷く話、共感しか出てこない話をしています。
或いは、そこまで面白い話をしている訳ではなくても、声を立てて笑ってしまう。
ぼやき節、甘噛み、隙。時折覗くそんな些細なことでさえニコニコしてしまう。
私はこれを、林家パー子状態と呼んでいます。
知らない方はごめんなすって。
私はパー子が本領発揮のコンディションなんです。
わあ、あらー。そんなことだけ言っていたいんです。
今の私は話すより聴く方を望んでいる。
だからご覧の通りかなりバランス自体は好ましくない。
そして、「これって何?」「何だと思う?」「あなたならこれをどう扱うの?」という対話が成立すること。

これがもっとも力が出る。
それが私にとって整っている状態です。
あなたはここら辺、如何でしょうか。
仕上がっている、に入るのはその先です。

どこが痛いのか、やはりそこが肝です。
耳が痛い。腹が痛い程、頬っぺたが痛くなるくらいに笑う。  
つい、ふきだしてしまったり。
フッ、となって拳を唇に当てて俯いて誤魔化すなどの洒落臭い挙動を愉しむ。嗜む。
それは誠に健やか。爽快にして痛快。

つまり私にとって扉のノブとなるもの。
完全なるわかりやすいフックです。
しかし意外と無重力空間のような趣きの場所にあり、そこまで辿り着きやすい平地にはないことがあります。 
高度があるんでしょうか?
何かが容易に干渉するような空間には存在していないという体感です。
独立している。
独自の時間が流れていて、時計を採用していないかのような空間。時、間、そのものを扱っている。

合併はなく、同盟はあると言ったら平たいでしょうか。

最近音を立ててバタバタと開いています。
私だけではありません。
あなたにもそのドアが開く音は届いているんじゃないかと思います。
一度、耳を澄ませてみてはどうでしょうか。
本当だー、となることを体感できるのでは。

あなたにとってのそこは、新天地はどんな場所にありますでしょうか。
地図にない場所かもしれません。
航空写真ならその姿を捉えることに手を貸すこともありそうです。
これから浮かんでくる浮島の場合だってあるんです。もう一度点検、探検を。

あなたにとっての新大陸はもうすぐそこです。

再確認のようになりますが、つまり理屈でどうこうを超えた感覚と言語の共有が為されていると理解しています。
経験の共有、とも言えるかもしれません。
或いはだいぶ大きくなりますが、記憶の共有。
或いは付与。上映。それらが可能なテクニックと実地。目線。スクリーン。

でもこれって私に限らないと思うんです。
あなたもこれ、当てはまったりしませんか?
部分的にか、全般的に、かはひとによります
が。
そして冒頭では数人と申し上げましたが、ここからはその数は鰻登りに増えていくと感じてもいます。
一気に勢力を増して塗り替えていく。
一気呵成な様。

「わかってもらえない」と一口に括って言うのはあまりにも乱暴な気がずっとしています。
それ自体を承認欲求と感じるひともいて当然である一方。
感覚的に共有する分母が少ない為に「通じていないような孤立感」というものもあり。
相互通信だけが平常とはいえないこともある。
切符にだって片道があります。
人によってそれこそ感じ方、使い方は千差万別。理解にも個々の色が関与しますよね。
だからあなたのわかってもらえた、わかってもらえない、感はどれも正当です。

あなたの感覚に勝るものは何もない。

それこそが人が持ち寄って重ね合わせていく目印だからです。
あなただけの目印。私だけのマーク。シンボル。
そうして、コミュニティは繋がり今日も築かれて育まれていきます。

無論、経験値によりその時々響き合うものは異なり、グラデーションしていきます。
離脱したり、ひとつになったり。
侭ならないことを愛しながら、侭ならないことに泣く。

幼児だった頃に仲のよかった子の傾向は割合いつの時代も通用するようにも思える反面。

小学校時代の友達と高校時代の友達じゃあ、違和感しかないことも侭あります。
地域と年齢でラベリングされることの有用性、無効性。

同時に地元の友人、という同郷感覚は私にとって皆無でした。
んなもん、ない。と言い切れる程に地元に対しても出身地に思い入れも何もない。
ただある種の心地よさだけはあります。
主に速度感として。
これは地域性も多分にありそうです。
しかし、これは私にとってとても大きなヒントになっていた。

ある年頃からその感覚を自分が持たないことを不思議に感じていたし、何なら羨望を超えて妬ましくすら感じることがありました。

地元が一緒なら何なんだよ、クソが。くらい強めの嫉妬心でした。
どういうアドバンテージなんだよ、と。
強めの言葉でごめんなさい。

私にしてはかなり珍しめの感情なのでこれは大変なヒントです。
激しい怒りと嫉妬でした。

これをどこでどう扱うものか、わからないなりにも大事そうだぞと、アンダーラインを引き。引き出しに仕舞われて保管されていました。

そうして早幾星霜。
今こそ取り出す時が来ました。
最近漸くその感覚が私にもわかるようになった。
私に関しては地元の規模、というかそんなものの扱いに関係していたようです。

単位が市町村なのか、否か。規模感。
サイズ感。そして同胞感覚。
志を同じくするものというのが平たいでしょうか。

そんな訳でかなりスッキリとしております。
私の言語でいうところの「仲間」とはここを指していました。

通じることは誰にとってもうれしいもの。
通じないことはその時哀しくても、私の今に繋がる種となり。
見えない間にちゃんとこうして芽吹く。
私や私たちが腐らず投げ出さず、耕し。
たくさんの想いと経験という栄養を与えてきた。
決して無駄にもならず、色褪せることもない。

あなたも同じです。大丈夫。
共にいきましょう。
開花の時期が異なる花が四季を通じて私たちを潤します。
一年中、降るように舞うように花は咲き誇る。
あなたの見たい花、あなたが眺めたい景色、あなたが望む季節に。何度だって。
それは実だって結びます。

あなたの謎もするりとはらりと紐解けますように。
その花が笑うように綻びますように。
わあわあ言いながら願っています。

いつもあらゆるあなたのご協力感謝します。


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