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着ぐるみマトリョーシカと自然な意思

「最近の調子?全く以前と変わりないよ」というあなたは昨今少ないんじゃないかと思います。

目紛しい速度感で物事や普通、関係性にポジション、世界、仕組み、私とあなたは変遷を遂げていて。

毎日着ぐるみをよっこいしょと脱いでは「こんにちはー」てな具合でもういいだろう、と思っていてもまたすぐによっこいしょと着ぐるみを脱いでいる感覚の私です。

「いつ終わるんだろうか?」とも思わなくなったぐらいにそれは日々頻繁で長い気配です。

まるで無限チャックの無限マトリョーシカのようです。

マトリョーシカと違うのは大きくなったり小さくなったりの入れ子式ではなく常に等身大サイズに更新されていること。
そして柔らかい素材。

開けていけば小さくなるし、仕舞っていけば大きくなるマトリョーシカ。

この今の私の感覚は散々マトリョーシカと言っておきながら立体の万華鏡っぽいのかもしれません。
覗いて回すとほわほわっと変幻自在にその形を変えるその立体バージョン。
そうだとするなら常に発展形、進行形であり完成形は存在しないのかもしれません。

「もう、年末の自分が想像できない…………」とまでに打ちひしがれ深刻な様相で私がこの場所に現れ出でたのは去年の話です。

今やこんな感じで「ひとりじゃないんだ」「仲間がいた」とばかりにマトリョーシカ生活を送る日々。
このきっかけって何だったかな?と振り返ってみた時にターニングポイントとなるものは石でした。

天然石、鉱物、で思い浮かぶあれです。
石を愛でてここまで来られたんだと思います。

石を愛で、共に暮らし、共に呼吸し、共に在る。
そんな事が私を「こっちだよ」といわんばかりに手を引いてくれたような気持ちでいます。

愛でることの効用、をひしひしと感じます。
そしてまた石からも愛でられている、それも深く感じています。

石と私はイコールで結ばれています。
増えも減りも上がり下がりもなく、等しい。
完全に各々成立しています。

この対象が人である事はそもそも許容される世の中。
でもその対象が本、植物、ぬいぐるみ、動物、記憶、創作物、有形無形問わず何であっても許容されて「そんなこともあるわね」という時代に突入しているんだろうなとも思っています。

どんなことであろうとも、それが途中でも終いでも「よかったね、きゃっきゃっ」が通用する、それでブン回っていく世界に棲まうものとしてこれを文章にしておきます。

ここからの共通言語は言葉だけに限らず、様々な一人ひとりの表現にその姿をうつしていく。
マジックアワーのような二度ない瞬間の美と色合いが重なり響き合う空と世界。

いつもあなたのご協力感謝します。


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