言葉の威光・采配
オフィシャルのネーミングとアナウンスって本当に力が大きいなと思います。
例えば「ハラスメント」
これは個人的にとてもいい羽織ものだと思っているけど、実際問題濫用、誤用されているシーンが多い感があります。
ネーミングがあることで議題に乗せやすく多くの問題点を包括して俎上に乗りやすく包まれている。
何よりこれは外野より当事者が扱いやすい文言に感じられる。
「ヤングケアラー」こちらも奥行きがあって包括的だと感じる。
ほぼ全ての個人的な問題を取り扱えるような感さえある。
こちらは個人的に内外問わず取り組みやすさを感じられます。
これらに限らずあらゆる改善点は、
周知されなければそもそも議論の余地がない。
だけど問題点であるからこそ、周知を避ける嫌うきらいがあるもので。
そこをやさしくタッチしていくのがこれらのオフィシャルで共通認識の持てる文言な訳で。
タッチしないとその先へのアプローチに繋がらない。
だけどこれは外からのタッチアプローチ以前に本人の目視とタッチが何よりも大切な訳で。
そしてタッチさえ叶えば他ならぬあなたがアプローチに手を貸してくださるという話でもあります。
例えば私は自分自身へのオラつきがハンパなく、自分をとことん追い詰めてきた体たらくです。
今はそこにタッチ、アプローチをしているのでゆるやかに自分にやさしくなっています。
どうしてこれができるようになったかは私に携わるあらゆるあなたの言葉の威光、眼差し、心配り、お力添えの賜物です。
いつもご協力感謝します。
ここで差配、といった言葉も思い浮かんできます。
差配さんとは小説でたまにお目にかかる表現ですが、まさしく差配さんの采配。
相手をわかろう。わかりあえないことをもわかろう、そんなことが柱のような人間でもありました。
そうすると苦しい。
だって相手に合わせることが前提ですから。
わかる方がわからない方に合わせるのは当然だ、だからこれは仕方ないんだ。
しかし、…何でそんなに汲んでやらねばならんのだ、私のことは一体誰がわかってくれるんだ。
でも倫理的に、人道的に、私がすることなのではなかろうか。
そこまでわかっていながら、私は淡々と日々をやり切ってしまっていた。
そう苦しみながらも自分の柱と思ってそれをやってしまう。
でもそんな訳ないんです。
見るところ。つまり私が視点をただ変えたら済んだ話でした。
私が見たいところ、ひと、を見る。
素敵だな、あんなやり方もあって。
あんな風に生きることもできるな、それでよかった。
今、越し方を振り返るに当たって。
倫理的に人道的にという視点をもってしても私の振る舞いは不要だったとわかる。
そもそも相手がファウルしていたのだから。
だけど私は自分に恥じないことを選んだ。
それでいいじゃない。ね?
今後は学んだことを活かせばそれでいいんです。
しなくてよかったのも本当だし。
したからといってそれで失うものも大きかったけど、恥じることもないし。
ただやはり、自分に恥じない為にそこまで代償、自己犠牲を負うこともなかった。
でも、よくやったんです。
我ながらよくやった。
今の私の成分になってるから、ま、いいわね。
ここからは私は私をいちばん大切に愛する。
私が私をわかりたいし、私が私を守るし、私が私を助けるし、私は笑って楽しく過ごしたい。
と、そんな今夜です。
どんどん、ぐんぐん自分にやさしくなれている日々です。
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