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イエローベール・敷き詰められる鐘の音

人の人生にはハイライトシーンがたくさんあります。

中でも自分の記憶の底から鮮烈にして懐かしい感覚に包まれるもの。あなたならどんなシーンが浮かびますでしょうか。

ふわっと足元から一葉舞い上がってくるような感覚のものをひとつ、今日辺り今一度手にして眺めてみませんか?

私の場合だとこれは二つのシーンが結ばれて一葉になります。

ひとつは公園で銀杏の葉を不思議な面持ちで矯めつ眇めつしている光景。
「何でこの形なんだろう」と。

もうひとつはそこから少しして本を手に瞠目するシーンです。

一見無関係に見えますが、私が瞠目したのはある日の銀杏の葉の形の問いに答えが本から齎された事による雷鳴のような感覚。

ゲーテの詩集に私の問いの答えがありました。

答えのないような問いに対する答えというのは科学的かもしれませんし、数学的、物理的な時もあれば、詩的かもしれません。とても日常的なものであるかもしれません。

「これだ」と自分に沁み入るようなものであれば、どんな観点のどんなものでもそれだと思います。

私は常より好みの話ばかりするしょうもなさで出来ています。

私はひとは一生好みの話をしているに過ぎず、だからこそ合ってるか間違ってるか。いいか悪いかを超えて誰もが自分の感じるすきを、好みを大切に出来たら幸せだと思っています。
好みなんだから、否定されても困惑です。
感覚や感性は個々で違う。それこそ個性、一人ひとりが違ううれしさ。
好みなんだから、移ろい変わることはあっても唯一絶対のものには成り得ない。
誰かとどんなに似ていても同じものでは有り得ない。

「自分の感覚の求める好き」を間違っていると糾弾されたり貶されたり教えて進ぜようとされると私に限らずひとは自信をなくしたり、迷ったり、元気を育てられなくなります。
それはとても切なくかなしい。

でもこれはそれを否定したり何かをいってくる対象がどうこうという話ではなく、「私がどれだけ私の感覚と自分を信頼するか」の話です。
終始一貫、ここの話なんです。

ひとはもっと己の好き嫌いで自分がそれに触れるかどうかを決めていい。
誰が何と言おうともです。例えその相手が時代であろうともならぬものはならぬ。
己イズベスト。

自分の意見を周りに合わせているうちに何がしたいかわからなくなったり、何を求めているかを掴む元気もない日だってあるのが暮らし。
ただただ消化試合する日だってあります。
大変ですよね、本当に。

楽しかったものに興味がなくなったように感じられるならまさしく興味の行き先が変わったのかもしれません。
昨日までのあなたの好みとこれからのあなたの好みが入れ替わる分岐かもしれません。
何も無い、わからない、ならばこれ幸いとばかりに共に探してみませんか。

ここからはまず元気を育てるだけの空間を確保することから始めてみるのもいいと思います。

私も部屋の一角に自分好みの庭を造園中です。
どんなあなたも、いっちょ共に造園どうすか?

いつもあなたのご協力感謝します。


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