支配する人道主義 植民地統治から平和構築まで

五十嵐 元道 (著) 岩波書店 (2016/2/26)

「人間の痛みへの共感」としての人道主義。純粋な心情に基づくものとして賞賛されがちだが、それは対象社会に病理を見出し、その処方箋を描く過程で相手との非対称な関係を築くことが多い。19世紀の植民地統治から冷戦後の人道的介入と平和構築活動まで、介入・統治をする側/される側の非対称な関係の生成に、人道主義が不可分に関わってきたことを国際政治学の視点から明らかにする。(Amazon 紹介文より)

目次
第1章 英領インドと人道主義―野蛮、独裁、無秩序
第2章 アフリカと人道主義運動―奴隷、ネイティブ保護、植民地主義
第3章 トラスティーシップの国際化と人道主義
第4章 貧困と支配―開発トラスティーシップの出現
第5章 人道的危機と介入―冷戦後の平和構築トラスティーシップ
終章 人道主義の二分法を超えて

著者等紹介(紀伊國屋書店より
五十嵐元道[イガラシモトミチ]
1984年生まれ。2013年、サセックス大学国際関係学部にてD.Philを取得。北海道大学大学院法学研究科助教を経て、現在、日本学術振興会特別研究員(PD)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

序章

結論を先に言えば、人道主義は植民地統治を基礎づけ、そして、同じように脱植民地化後の開発政策や冷戦後の平和構築活動を正当化してきた。人道主義は一九世紀から現在に至るまで介入、統治を「する側」と「される側」両方の性質を規定する重要な要因のひとつだった。簡単に言えば、これまで多くの人々が人道主義的に考え行動した結果、強いパワーをもった国が弱い立場の国や社会を支配することを正当化し、場合によってはそうした支配を積極的に唱道してきたのである。
これは一見すると非常に不思議な現象だ。何よりも他者の善を追求するはずの人道主義が、支配/被支配の関係を正当化するなどということがあるだろうか。けれども、近年登場した数多くの開発および平和構築活動の批判的論者から言わせれば、これはそれほど奇異な主張でもない。彼らによれば、開発や平和構築は言説上きわめて愛他的だが、実際には非対称な権力関係の上に成り立っている。そして、しばしば活動の対象である社会に何らかの損害さえ与えてきた。

非対称な権力関係としての「トラスティーシップ」
国際社会の介入、統治を「する側」と「される側」の区別を捉えるために、本書では「トラスティーシップ」(trusteeship)という概念を用いる。ここでのトラスティーシップは、国際社会における介入、統治を「する側」と「される側」の非対称な関係、および介入・統治の場を指すもの、と定義する。それは特定の制度を指すのではなく、植民地統治から平和構築まで、非対称な関係に基づく介入や統治一般を指す抽象的な概念である。それゆえ、あくまで国際社会における介入と統治のなかで生じた主体と客体の非対称な「関係」を捉えるための概念である。これによって、イギリス帝国の宗主国/植民地の関係はもとより、開発における援助国/被援助国の関係、さらに平和構築の実施国/紛争(後)地域を包括的に捉えることが可能である。こうした非対称な権力関係は常に何らかの正当化の言説に基礎づけられてきた。

本書は、植民地が現地のためだったとか、現地に利益をもたらしたとか、と主張したいわけではない。そうではなく、イギリス帝国が世界中に植民地を持ち、それらを維持していた時、その統治を支えた理念がイギリス帝国の一方的な利益の追求だったと言えるのかと問いたいのである。
そうではなかった。やはり、イギリス帝国も植民地統治を正当化するために、複雑な理論体系を必要としたのである。そしてまったく同じように、冷戦後の人道的介入と平和構築もその巨大化する権力を正当化するための理論体系を必要としてきた。ならば、イギリス帝国を支えたトラスティーシップの理論体系と、冷戦後のトラスティーシップを支える理論体系には何らかの連続性はないのだろうか。
そこで本書が注目するのが人道主義である。冷戦後の介入と統治は、対象地域の主権を一定程度侵害する以上、やはり道徳的な正当化を必要とする。そのために貧困、飢饉、紛争、大量虐殺といった「人間の痛み」(human suffering)が強力な根拠として使用されてきた。人間の痛みを取り除くためには外部からの介入と統治がどうしても不可欠という論理である。もちろん、人道的介入やそれに続く平和構築において、人間の痛みを軽減したり、その原因を解消したりすることが、主権の侵害を例外的に正当化するかどうかについては今なお論争的である。にもかかわらず、本書が後に明らかにするように、多くの政策決定者や研究者が介入や統治を正当化するうえで、人間の痛みを問題にする人道主義的言説を用いてきた。

本書が指摘したいのは、イギリス帝国の植民地統治が人道的だったということではなく、むしろ植民地統治の「理念」の形成に携わった人々の意識には、人道主義が強く働いており、その言説構造が冷戦後の介入と統治においても再生産されているということなのである。本書がこれから明らかにするように、人道主義は一見すると中立で普遍的だが、実際の国際政治のなかでは非対称性を形づくるイデオロギーとして機能してきたのである。

先行研究の問題点
リベラリズムへの偏重

1植民地統治から開発、人道的介入、そして平和構築をつなげる研究は実のところ少なくない。そうした研究の多くは、介入と統治を支えるパラダイムやイデオロギー上の連続性を指摘することで、冷戦後の介入・統治の在り方を批判する。そこで批判的論者の多くが注目するのがリベラリズムの理念である。
そもそも、リベラリズムが人道的介入や平和構築を基礎づけているという考えは、介入に肯定的な論者にも広く共有されている。彼らによれば、人道的介入や平和構築はリベラルな国際主義(liberalinter-nationalism)によって基礎づけられており、介入対象である社会の自由化や民主化を目指すものである。そして、こうした論者はそれを規範的に好ましいものと捉える。リベラルな国際主義とは、「リベラルな国家の間の平和は、グローバルな貿易、国際協調、国際法の遵守などと組み合わされる政治的・経済(6)的な自由化を通じて進展する」という考え方である。リベラルな国際主義の淵源をたどれば、ジョン・ロックなどの古典的なリベラリズムの思想に行きつく。誤解を恐れずに言えば、リベラルな国際主義とは、思想や信条の自由をはじめとする政治的自由と、所有権の保護に支えられた市場での経済活動の自由を核とし、外交から貿易までを含む広範囲の国際的な言説と実践を規定するパラダイムである。
これに対して、批判的なアプローチを採用する研究者は、リベラリズムに基づく介入や平和構築の正統性に疑義を呈する。彼らは、リベラリズムやデモクラシーは必ずしも普遍的に適用可能なわけではないし、リベラルな平和構築はしばしばエリート主義的でパターナリスティックであり、様々なレベルの〔問題を起こしてきたと批判する〕。

それゆえ、人道的介入に積極的な論者にとって重要な問題となるのが、介入の人道主義の真偽をどのように判定するのかということである。一部の論者は人道的な動機を基準とし、また別の論者は介入の人道的な結果に力点を置く。いずれの立場にしても、人道主義は、政治から切り離された権力性を帯びない無害なものとして表象される。こうした理論家にとって、人道主義は介入の政治権力を正当化するための(あるいは介入の政治権力の善悪を区別するための必須の条件ということになる。

人道主義は必ずしも普遍的でも中立的でもなく、政治権力から独立しているわけでもない。人道主義と国際社会の非対称性は、いわば相互に構成的である。つまり、人道主義はその目的のために非対称性を基礎づけ利用するが、同時に非対称性の構造のなかで、その意味内容を規定される。それゆえ、人道主義を客観的基準にした二分法は必ずしも成り立たないのである。

人道主義は帝国主義および植民地主義を支える理念の一部をなす一方、その権力構造に意味内容を大きく規定されてきた。そして、その人道主義と権力の相互に構成的な関係は、脱植民地化後もなお様々なかたちで再生産されてきた。これが本書を通して主張したいことである。
本書は、先行研究が提示した人道主義の二分類を採用する。そして、そのうちバーネットが言うところの「錬金術的人道主義」(すなわち、他者の痛みの根本原因を問題にする人道主義)に注目する。この人道主義が植民地統治や平和構築を基礎づけてきたのであり、トラスティーシップを構成する傾きがあると考える。この人道主義に内在する「人間・社会の発展モデル」は決して普遍的なものではない。そこにはしばしば文化的偏向が見られる。では、人道主義は一体どのように特定の人間・社会モデルと結合するのか。また、どのように特定の権力構造と結びつくのか。これまでの研究ではその点が十分に解明されてこなかった。
本書がこれから論じるように、人道主義は対象社会の性質をしばしば大きく変えてしまうような社会改良政策の構成に寄与するとともに、抑圧的な政治体制の構築に深く関与する傾向にある。それこそが人道主義の権力である。


たが、イギリス帝国は人道主義とトラスティーシップの関係を考えるうえで最も重要な事例である。それというのも、イギリス帝国はたびたび人道主義を外交政策の中心的な理念として掲げたからである。一九世紀のフランスをはじめとする他の幾つかの植民地帝国と比べても、イギリス帝国による人道主義の言説の利用は際立っている。また、帝国の規模から言っても、当時の国際社会に与える影響はきわめて大きいものだった。
一九世紀という時期に注目するのにも明確な理由がある。人道主義の規範は一八世紀に広まったが、それが植民地主義と結合したのが一九世紀だったからである。一八世紀、人道主義者によって刑務所改革運動が実施され、残虐刑の廃止が主張された。キリスト教福音派と自由主義者は理論的には対立関係にあったものの、一連の刑法制度の改革においては協力関係にあった。運動の結果、物理的な痛みを身体に加えるような刑罰は減らされ、その代わり、禁固刑という新しい手法が登場した。こうした改革によって、人間の身体を無暗に傷つけてはならないという規範がヨーロッパに広まった。時期を同じくして、スコットランド学派の知識人が「共感」(compassion)を人間の主要な性質としたのは必ずしも偶然で(F)はない。そして一九世紀に入ると、イギリスでは中産階級が増加し、彼らが慈善活動などを通じて貧困問題の改善をはじめとする様々な社会問題に積極的に取り組み始めた。バーネットによれば、「一九世紀初頭、〔人道主義という言葉が日常的に使用され始めた」。そして、この人道主義の規範は、植民地統治に関わる様々な人々の認識の前提を形づくった。

第1章 英領インドと人道主義―野蛮、独裁、無秩序

ミルの思想はリベラリズムとそれに基づく政治制度を基礎づけたが、同時にインドの植民地統治も基礎づけた。ミルの植民地主義に関する指摘はすでに多くの研究が行っており、決して新しくはない。本書が指摘したいのは、その植民地統治の基礎づけにおいて、人の痛みへの共感という人道主義の言説が重要な役割を果たしたという点である。ミルをはじめ、功利主義の論者が強調したのが、「野蛮と独裁に由来する人々の苦しみ」であった。植民地統治はその苦しみからの解放を目指すとされた。
ところが、一八五七年にインドで大反乱(第一次インド独立戦争)が起こると、今度は一転して「無秩序(anarchy)に由来する人々の苦しみ」という言説が植民地統治の基礎づけに登場した。この無秩序からの保護こそがイギリスの植民地統治の目的であるとされた。

日本語に訳せば、ここでのトラストは「信託」となる。このシステムでは、土地所有者は相続税や戦没による土地の没収を回避するため第三者に土地の管理を委託した。この場合、土地の占有権は第三者に移るが、所有権は元々の所有者によって保持された。
ところで、中世のイングランドでは、人々はまだ国の土地と王の土地を明確に区分していなかった。言い換えれば、国家の領土という概念がまだなかったのである。それゆえ、「信託」という概念は、統治者と被治者の関係には適用されなかった。
この「信託」という概念を政治権力に適用したのがジョン・ロック(John Locke)であった。『統治二論』(一六八九年)のなかで、彼は次のように論じた。
立法部を移転したり改造したりする最高の権力は、いぜんとして国民のうちにある。というのは、ある目的を達成するために信託を寄せて与えられた権力は、すべて、その目的によって制約されているので、その目的が明らかに無視されたり、または妨害されたりすれば、いつでもその信託は必然的に失われ、権力はそれを与えた人々の手にもどらなければならないからである。そしてその人々は、その権力を彼らの安全と保障に最もふさわしいと思われるところへ改めて委ねることができるのである。
このようにロックは、政治権力は市民からの信託を基礎にしているとした。しかし、一七世紀、この考えは急進派にしか受容されなかった。というのも、それは民衆の革命権の存在を示唆したからである。

法制史家F・W・メイトランド(EW, Maitland)によれば、「すべての権力が信託であるという考えが議会の常識となったのは、一八世紀においてであった」。
急進派の政治思想のなかで論じられた信託は、その後、保守主義者の政治思想にも登場する。J8・ミルが一九世紀最大の思想家として言及した保守主義者S・T・コールリッジ(S. T. Coleridge)は、「教会と国家の構成原理」(一八三〇年)のなかで、聖職者階級は国家財を信託された受託者(trustees)として、国の文明の発展を進める義務を負っているとした。そして、王は「国家財の最高位の受託者であり保護者」(the protector and supreme trustee of the Nationally)と位置付けられた。このように信託概念はイギリスの統治原理に浸透していった。
植民地統治にこの信託の概念を最初に適用したのが、エドマンド・バーク(Edmund Burke)である。一八世紀末まで、東インド会社はインドの統治権を持っておらず、ただエリザベス一世からの貿易特権を得ていたに過ぎなかった。けれども、ムガル王朝の統治権力が弱まりインド各地の諸勢力が強まると、インド全体の秩序が不安定化しはじめ、東インド会社はインドの国内政治に介入を開始し、最終的にインドの統治権を獲得したのである。しかし一八世紀末、東インド会社の統治は政治権力の乱用と腐敗で激しく批判された。その急先鋒がバークだった。彼は、「[インドでの植民地統治の原理は]信託である。それは説明責任を本質とし、もしその統治が〕法的に存在する目的から実質的に外れてしまった場合、信託は停止することになる」とその演説の中で述べた。バークによれば、東インド会社は決して受託者の義務を履行してこなかった。それゆえ、英領インドの統治権はイギリス政府に移譲すべきであると主張した。

アンドリュー・ポーターが指摘するように、バークにとって信託の目的は、インド社会の性質を改良することではなかった。むしろ、インド社会を東インド会社による無責任な統治から保護することだった。バークはインド社会が野蛮だとは考えなかった。それどころか、インドの文明を賞賛すらした。インドの歴史や法、宗教などに関する研究は、一八世紀末、英領インドの裁判官で言語学者のウィリアム・ジョーンズ(William Jones)らによってすでに進められており、バークはジョーンズの研究を参照した。また、フランス革命に対して批判的だったことからも分かるように、バークは急進的な改革によって社会を発展させるという考えを信じなかった。このような、ある意味で消極的な統治理念の転換が起きたのが一九世紀だったのである。

2インドの病理化
バークのインドに関する演説以来、イギリス帝国とインドの関係は徐々に信託の関係として規定されていく。しかし実際には、植民地統治の起源は主に軍事的な支配に始まるものであり、インドの人々が彼らの政治権力をイギリス政府や東インド会社に委譲したわけではなかった。それゆえ、このイギリスとインドの関係にはより精緻な理論化の必要があった。
そこで重要な役割を果たしたのが功利主義の思想である。結論を先取りして言えば、功利主義の言説は、インドの人々は野蛮と独裁に苦しんでいるため、イギリス帝国による植民地統治を必要としているとした。このようなインドの病理化は、植民地統治を正当化するとともに、具体的な統治政策の形成にも影響を与えた。

しかし、J・S・ミルは野蛮な社会が近代社会に発展する可能性を否定しない。野蛮な社会は、文明国による植民地統治によってはじめて発展すると主張した。一九世紀の植民地トラスティーシップの言説では、非ヨーロッパ社会の野蛮と独裁は、植民地化によって改善するとされた。
ミル親子がインド社会を野蛮で独裁的と表象したとき、イギリスは明示的に、あるいは黙示的に文明化された国として対置された。功利主義者で植民地官僚でもあったマコーレー卿(Lord Macaulay)は「イギリスの歴史はまさに進歩している」と主張した。他の地域に先駆けて進歩し続けている、というイギリス的なるもののイメージは、その前の世代のイギリスの知識人から引き継がれたものであった。例えば、スコットランド啓蒙哲学者のひとりであるアダム・ファーガソン(Adam Ferguson)は次のように述べている。
政治的な知や芸術の天分は、腰を降ろす場所として地上のある特定の地域を選び、特定の民族を気に入って選んだように思われる。・・・・・・〔イギリス〕人類がこれまで決して到達していない完璧なところまで、法の権威と統治を発展させたのである。
しかし、この考え方はスコットランド学派による独自の発明ではない。エドワード・サイード(Edward Said)が指摘したように、イギリスがアイルランドを支配しようとした時やアメリカを植民地化しようとした時にも、同じようなイメージが登場した。
ところで、J・S・ミルがヨーロッパ以外の文明を野蛮であると主張したことについて、それが人種主義であるか否かが研究者の間でも論点のひとつとなってきた。人種問題をめぐっては、一八四九年に起きたミルとトマス・カーライル(Thomas Carlyle)の人種論争が示唆的である。この年、カーライルは『フレイザーズ・マガジン』誌上で「黒人問題論」と題する記事を発表した(一八四九年)。彼はすでに実施されていた植民地での奴隷解放に異議を唱え、次のように主張した。黒人は白人よりも生来劣っているのであり、奴隷として仕えるのが道理である。また、彼らが労働するのは鞭で強制された時だけなので、奴隷になる必要があるのだ、と。西インド諸島のプランテーションでは奴隷廃止に加えて、イギリスでの砂糖の関税引き下げが進められており、経済的に大きな打撃を受けた白人農場主の怒りがカーライルの議論の背景にあった。ミルはこれに反論し、黒人が生来劣っているなどということはあり得ないとした。けれども、ミルはインドの事例で見たように、社会を相互に比較し、インドをはじめとする非ヨーロッパ社会が劣っているということを主張した。つまり、人間が生まれながらにして劣っているということはないにせよ、偶然的・環境的に優劣が決まることは認めたのである。そこで幾つかの研究では、ミルの思想が生物学的決定論に基づく人種主義ではないものの、文化的な差異(およびヨーロッパ中心主義)に基づく人種主義なのではないか、という指摘がなされている。
ともあれ、以上のように、ミルらの功利主義の言説はインドを野蛮で独裁的で、イギリスを文明的であると表象することで、宗主国イギリスと植民地インドの非対称な関係を構成し、正当化したのである。インドの人々は野蛮と独裁に苦しんでいると判断され、彼らをそうした悪から解放することが植民地統治の目的であるとされた。さらに、功利主義はイギリスこそが解放の任を担う能力を持った存在であると主張した。

善意の独裁
社会改良に加えて、独裁的な植民地体制が行政効率の点で他の体制よりも優れているという理由により正当化された。原理的には、功利主義は君主政や貴族政に反対してきた。それは、これらのシステムでは社会全体の利益の追求とは別の目的で政治が実施される可能性があるからである。ただし功利主義によれば、民主制では政策決定に数多くのアクターが参加するため、政策決定が遅滞するという難点がある。それゆえ、代議制が最良の政治制度として支持された。しかし、功利主義はインドに代議制を導入することを、政治家による権力の濫用を招くとして否定した。そこで文明国による善意の独裁が野蛮な社会を発展させるうえで最良の政治体制であると論じた。このように、英領インドの政治体制として、イギリス本国では否定されたはずの独裁が正当化されたのであった。
問題は誰がインドで統治の責任を担うかであった。東インド会社なのか、イギリス議会なのか、あるいは王室なのか。ジェイムズ・ミルは、東インド会社は腐敗しがちであるとして、その統治に反対した。議会による管理もまた議員への利益供与の問題が生じるとして反対した。そこで彼が支持したのが王室による統治であった。ミルは「ヨーロッパの名誉と知恵によって抑制された単純で専制的な統治こそ、インドに適した唯一の体制である」と主張する。

インドでの植民地トラスティーシップは、現地での統治が一定程度成立した後に、正当化のために人道主義的言説を必要とした事例だった。植民地トラスティーシップの理論体系は人間の痛みを問題にしており、人道主義的な言説構造を備えていた。一九世紀初頭、功利主義はインドの人々が現地の独裁的政治体制や宗教的権威、野蛮さによって抑圧されてきたとみなした。抑圧されたインドの人々の痛みへの共感という言説は、一種の人道主義だった。この人道主義の言説がインド社会を病理化し、抑圧からの解放こそ植民地統治の目的であるとした。それゆえ、この植民地トラスティーシップの言説は、それ以降続くことになる、トラスティーシップと人道主義の相互構成的関係の始まりを示すものだった。一八五七年の大反乱後には、無理な近代化(西洋化)によって引き起こされたと解釈された「無秩序」が、インドの新たな病理を形成した。「無秩序」は不合理な暴力によって特徴づけられ、インドの野蛮さを象徴するものとなった。インド社会はその性質ゆえに、無秩序に容易に陥るとされ、そのため、インド社会の無秩序からの保護が植民地統治の新たな目的として構成されたのである。そして、こうした病理化が社会改良や権威主義的統治といった処方箋につながった。

第2章 アフリカと人道主義運動―奴隷、ネイティブ保護、植民地主義

一九世紀のアフリカは、世界でも有数の人道主義運動の中心地であった。フィリップ・カーティン(Philip Curtin)は一九世紀を「人道主義の時代」と呼び、人道主義の言説がアフリカの植民地化と密接に関わっていたことを明らかにした。英領インドと異なり、この時期のアフリカでは、イギリスが実効支配できた地域はごくごく限られていた。本章がこれから明らかにするように、人道主義運動の担い手たちは、アフリカに植民地帝国ができ上がる前に、帝国による植民地化のための理論体系をつくりあげ、そして人道主義的な動機から、アフリカ各地の植民地化の必要性を本国に懸命に訴えたのである。この時期の人道主義運動を分析したブライアン・スタンリー(Brian Stanley)は次のように指摘する。
福音派のキリスト者は、福音に自由を、ネイティブに保護を、奴隷に自由を、といった目標を頑強に追求した。······しかし、こうした彼らの関心がそのうち彼らをより頻繁に、そして熱心に、あからさまな帝国的な解決策を主張することに向かわせたのである。

一九世紀半ば、反戦運動の活動家たちは奴隷問題について帝国の積極的な介入を求めはじめた。一世紀後半から始まった反戦運動は、それまで原則として帝国の介入を求めてこなかったので、これ大きな転換点であった。一八三三年にイギリスで「奴隷制度廃止法」が成立し、奴隷解放が開始されたが、反奴隷運動の活動家は奴隷問題が未だ解決していないことに憤り、問題の原因がアフリカ社会の性質にあるのではないかと考えるようになった。そして、その処方箋として、アフリカでの植民地統治を主張したのである。
この節では、反奴隷運動の言説がどのように転換し、植民地主義と結びついたのかを分析する。その際、分析対象とするのが、主にウィリアム・ウィルバーフォース(William Wilberforce)とT・F・バクストン(T. F. Buxton)の言説である。ウィルバーフォースは反奴隷運動の指導者であり、議員でもあった。バクストンはウィルバーフォースの後継者で、反奴隷運動の指導とともに議会での活動も引き継いだ。このふたりの代表的な人道主義運動家は思想的にはきわめて類似しているが、しかし帝国との関係ではまったくと言ってよいほど異なる性質を示した。

「表象の戦争」とW・ウィルバーフォース
一八世紀に入り、奴隷貿易は最盛期を迎えた。その一方で、一八世紀後半に入ると、奴隷廃止論が多くの知識人と宣教師に広まり、支持を拡大していった。例えば、アダム・スミス(Adam Smith)は奴隷廃止論者のひとりで、奴隷制の生産性に疑問を投げかけた。しかし、プランテーションの経済的利益を享愛していた人々は議会に強い影響力を持っており、奴隷制と奴隷貿易が非合法化されることは簡単ではなかった。トマス・クラークソン(Thomas Clarkson)やグランビル・シャープ(Granville Shape)といった初期の反奴隷運動の活動家は、運動を組織して世論を動かそうと試みた。その結果、反奴隷運動は徐々に大西洋の宗教ネットワーク、特にクエーカーやメソジスト派の支持を得ていった。彼らは奴隷貿易を宗教上の罪とみなした。
大西洋での奴隷貿易をめぐる奴隷制廃止論者と反廃止論者の論争は、奴隷やアフリカの人々の表象それ自体を闘争の場に変えた。キャサリン・ホール(Catherine Hall)がいみじくも名付けたように、奴隷をめぐる闘争は「表象の戦争」となった。奴隷制を支持する側は、あくまで奴隷やアフリカの人々を「非人間」として描き、廃止論者は彼らが「人間」であると主張した。
最もよく知られているのが、イギリスの陶器会社の創設者ジョサイア・ウェッジウッド(Josiah Wedg-wood)が一七八七年につくったメダイヨン(装飾がほどこされた大型のメダル)である。そこには鎖に繋がれた黒人奴隷の絵とともに「私は人間でも兄弟でもないのですか?」という言葉が刻まれていた(その後、「私は女性でも姉妹でもないのですか?」が登場する)。また、奴隷貿易廃止実現協会が冊子のなかで描いた奴隷船内の図も、奴隷への信じがたい暴力の実態を示すことで、奴隷への共感を呼び起こす狙いがあった。この図によれば、奴隷船内には所狭しと奴隷が詰め込まれていた。この図について、反奴隷運動家のクラークソンは一八〇八年に出版した著書のなかで「この図は見たものにすぐさま恐怖の感情をもたらす。それゆえ、この図は広く出回り、結果として傷つけられたアフリカ人の利益に資する道具になった」と述べている。
ウィルバーフォースは一八〇七年に『ヨークシャーの土地保有者、およびその他の住人への奴隷貿易廃止についての手紙」と題した冊子を出版したが、やはりこれも世論と政治家に対して、アフリカ人や奴隷があくまで「人間」であることを訴えるものだった。それまでイギリスでは奴隷はモノとして扱われていた。そして、イギリス帝国内の法律もまた、奴隷を法的人格としては認識していなかった。この冊子のなかで、ウィルバーフォースは「奴隷貿易廃止の提案を拒否する意見は、明らかに黒人が人間として扱われたり配慮を受けたりする権利がなく、そうした存在とは考えられていないということを示している」と指摘した。奴隷やアフリカ人に人格を認めることは、反奴隷運動にとってきわめて重要な争点だった。それというのも、奴隷とアフリカ人への共感こそが、彼らの待遇の改善につながると思われたからである。ウィルバーフォースは、奴隷とアフリカ人の非人間化が「植民地システムの最大の悪」であると批判した。
奴隷とアフリカ人を人間として承認させることに加えて、ウィルバーフォースは奴隷貿易の非道徳的な性質を明らかにすべく、次のように主張した。第一に、奴隷貿易はアフリカで部族戦争を引き起こしてきた。アフリカ人は西洋の交易品を買うために、お互いを奴隷として捕獲し売却しようとする。部族戦争はアフリカの共同体を破壊し、その結果、アフリカ社会の慣習や道徳は崩壊した。第二に、奴隷を船で西インド諸島などへ輸送する際の扱いが、あまりにも残虐で非人道的であると主張した。ウィルバーフォースによれば、「奴隷船での死亡率は異常に高いものだった」。第三に、奴隷貿易はアフリカの発展と繁栄を妨げてきた。奴隷貿易さえなければ、ヨーロッパとの交易はアフリカに社会的発展、道徳、宗教的な恩恵をもたらすはずだった。さらに奴隷貿易はアフリカのみならず、イギリス社会の道徳や慣習を悪化させていると指摘する。
しかし、こうした宣教師による奴隷とアフリカ人の表象にも偏向が見られる。ウィルバーフォースや他の宣教師が口にする「人間」という概念には、キリスト教へと改宗可能な異教徒という前提があった。これと同様に、一六世紀、スペインの宣教師であったラス・カサス(Bartoloméde las Casas)がやはりアメリカインディアンを潜在的なキリスト者として扱い、彼らのアイデンティティを無視していた。イギリスの宣教師もラス・カサスがそうであったように、奴隷やアフリカ人の固有のアイデンティティを認めることができなかった。バプティスト宣教師協会のメンバーだったサミュエル・ピアース(Samuel Pearce)の議論は、この「無関心」(indifference)をよく示している。彼は「キリスト教の心は世界と同じくらい広くあるべきだ。アジア人、アメリカ人、アフリカ人、誰もがわれわれの同胞なのだ」と宣言したが、ここに挙げられた人々のアイデンティティや文化は残念ながら考慮されてはいなかった。
さらに、宣教師はアフリカが無知と迷信に支配されており、野蛮であるという点について疑いを持つことはなかった。ウィルバーフォースは次のように書いている。
アフリカ人が野蛮で無知な状態にあることを根拠に、彼らを奴隷にする権利を基礎づける論理がある。その論理の健全性に疑問を呈する時、あるいはさらに、たとえアフリカ人が無知で野蛮であるという前提を認めたとしても、キリスト教の論理に基づく結論は、恵まれた国の義務はアフリカ人を抑圧したり奴隷化したりすることではなく、彼らを文明化したり啓蒙したりすることであるという結論に自ずとなる。
にもかかわらず、彼はアフリカ社会のキリスト教化や文明化の政策については議論を発展させなかった。それというのも、奴隷貿易こそがアフリカの進歩を妨げる根本的な原因であると考えたためである。彼の主要な目的はアフリカを文明化することではなく、奴隷制と奴隷貿易を廃止することだった。

一八三〇年代は反奴隷運動の頂点の時期である。英領植民地の奴隷は一八三四年八月以降解放され、一定期間の主人への年季強制労働を経て、一八四〇年にはほぼ完全に自由になった。また、外務大臣としてパーマストン(3rd Viscount Palmerston)が積極的に奴隷貿易の取り締まりを目指し、奴隷貿易を継続していたポルトガルなどの国々に圧力をかけた。しかし、奴隷解放の後でさえ、なかなか奴隷貿易は消滅しなかった。
そこでバクストンは奴隷貿易の構造を再検討し、問題の解決策を模索した。一八三七年、彼は奴隷貿易の廃止に関して新しい考えを思いつき、その計画を実行すべく政府に働きかけた。この一連の計画が一八三九年、「アフリカ貿易とその処方箋』という冊子として出版され、世論と議会に強いインパクトを与えた。

アフリカの病理化
この冊子で、バクストンは奴隷貿易の消費者ではなく供給者に注目した。彼はどのように奴隷が供給されているのか、誰によって供給されているのかを明確にしようとした。バクストンによれば、アフリカ人が奴隷としてお互いを売っていた。彼は次のように述べている。
卑しく残酷な〔アフリカ人の〕親が子供をモノと交換している。そして首長は彼の家臣たちを交換している。各人が隣人を邪悪な眼で見ている。そして、その隣人を捕まえるべく罠を仕掛けている。

このようなバクストンの議論には本質主義的な傾きがあるかもしれないが、アフリカ国内で現地の奴商人が奴隷を獲得するために戦争や誘拐を繰り返していたことは事実であった。また、飢饉や流行病の結果、家族が致し方なく子供や大人、場合によっては自らを含め、家族もろとも奴隷として商人に売り渡すこともあった。さらに、奴隷貿易によって貨幣経済が西アフリカに広く浸透していくなか、貨幣獲得のために子供を奴隷として売る場合もあった。このように奴隷という「商品」の大西洋を越えた取引が、アフリカに資本主義経済を徐々に浸透させ、大きな社会・経済的変化を引き起こした。
パクストンは人道主義に基づき、その変化を問題視するとともに、アフリカの野蛮さこそが奴隷貿易が残存する原因であると主張し、アフリカ社会を病理化した。このようにして、人道主義によって人道的危機の根本原因の解明と解決が要請された。そして、アフリカ社会の性質と問題の原因が結びつけられた。パクストンの目的はアフリカ社会の病理化ではなかった。ただ、奴隷制の問題の原因を追究しただけであった。

これまで説明してきたように、バクストンの目的はアフリカにおける植民地の拡大ではなかった。あくまで、人道主義に基づき、奴隷貿易を廃止することこそが彼の目標だった。帝国海軍の利用やアフリカの植民地化は、人道主義的な目的を達成するための手段にすぎなかった。ここで言いたいのは、反奴隸運動だけが植民地支配の基盤を形成したということではない。そうではなくて、バクストンなどの宣教師の活動はあくまで人道主義的な意図に基づいていたということ、そして、そうであったからこそ、西アフリカの植民地支配の拡大を支持し、それに寄与したということである。

イギリスの植民地化は、常に宣教師たちがつくりあげた反奴隷運動の言説とともに進んだ。ゴールディの活動も奴隷制度廃止運動の言説と無縁ではない。ゴールディが特許状を取得したのが一八八六年で、その際、奴隷貿易と戦うことが条件づけられた。その後、ゴールディの会社が一八九七年にニジェール川流域に位置したビダ首長国とイロリン国へ侵攻した時にも、彼らは反奴隷運動の言説を利用した。一九〇〇年、フレデリック・ルガード(Frederick Lugard)が北ナイジェリア高等弁務官として赴任すると、さらにイギリスの植民地は拡大したが、そこでも反奴隷運動の言説が使用された。一九〇二年にルガードは次のように述べている。
 ソコト、カノ、カチナをイギリスの統治下に治めることで得られる通商上の利益は大きいが、それは別として、私はこの問題の解決がザリア、パウチ、ヨラといった首長国を鎮めるうえで多大な効果があるだろうと期待する。これらの国々はイギリスの支配に忠誠を誓わない限り、決して鎮まらないだろう。毎年行われる奴隷の献上のために、これらの首長国は秘密裏に奴隷をかき集めて送ろうと熱心に頑張ることになってしまう。
そして、その二年半後には、次のように述べている。
 現在、イギリス国旗が北ナイジェリア全土ではためいている。この広大な地域は二年半前に行管理下に置かれた。そして、組織的な奴隷狩りが最近まで最悪なかたちで行われていたこの地域で、それが過去のものとなったのである。
これらの言説は単なる商業利益や領土拡張を目的とする帝国主義的関心を覆うための虚言だったのだろうか。ゴールディはともかく、ルガードに関しては、終生、反奴隷運動や反人身売買の活動をイギリス帝国(ならびに第一次大戦後は国際連盟)で続けた。人道主義と植民地主義は彼のなかで決して矛盾していなかったように見える。ここで重要なことは、政治的利益のために人道主義が利用されたかどうかではない。むしろ、人道主義の活動を始めた人々が、人道主義的目的のために帝国によるアフリカの植民地化を要請し、それが植民地統治の理論体系を形づくった、ということが重要なのである。

しかし、植民地法はネイティブを「奴隷以上に劣悪な状況」に置く一方、公平なシステムを構築する契機を内在させている、とフィリップは指摘する。実際、植民地法は、文面上ではネイティブが人格、所有権、占有権において自由人と同じように扱われると定めている。コイサン人には「労働の公平な対価を得、抑圧や残虐さから免れ、住居の場所を選ぶ権利がある」。さらに法体系はネイティブ保護の手段としてだけでなく、アフリカの人々による抵抗の手段としても機能する余地があった。フィリップによれば、現在のところ、南アフリカの伝道所が唯一ネイティブを保護し、虐待から守る場所になっているという。しかし、それだけではコイサン人の権利を保護するには十分ではない。それゆえ、イギリス政府がネイティブに平等な法の保護を与えるべきだと主張した。このようにフィリップは、イギリス帝国が植民地法の持つ潜在的な権利保護の機能を引き出し、南アフリカでの権利と正義の守護者になるべきだと考えた。
しかし、保護対象となるアフリカの人々には幾つかの義務が課された。彼らには文明化や産業化を目指し努力をすることが求められたのである。フィリップは次のように書いている。
私はネイティブに次のように言った。彼らの目標を弁護するだけでは意味がない。世界とキリスト教会は、彼らの発展の能力、および労働力としての有用性の証拠として、文明化と産業化を求めている。世界の人々は宣教の有益性を判定する基準を他に持っていないのである。
このように宣教師の活動の目的は、イギリス帝国による南アフリカへの介入の請願だけでなく、現地の人々をイギリス帝国の従順な臣民に、そして資本主義経済における有用な労働者に変えることでもあった。
フィリップの計画では、ネイティブは伝統的な権威から切り離されることが求められた。キリスト教の布教や文明化の試みによって、すでにネイティブは徐々に彼らの嗜好、道徳、規範、性質を変えられつつあった。その結果、伝統的な権威を支えていた社会的な基盤が揺らぎ、ヨーロッパの社会経済的なシステムが浸透していった。新しい産業や農業はイギリス帝国が必要とする生産物をつくるように設計され、それによってイギリスとの貿易が増加することが期待された。
もちろん、現実にはネイティブの社会が一方的に受動的に変わったというわけではない。ネイティブの社会ではキリスト教の文化を自発的に取り入れ、自分たちの文化と混ぜ合わせるという動きが起きた。また、宣教師の側も現地の文化(例えば、一夫多妻制の慣習)と衝突するなかで、妥協を余儀なくされた。最終的にフィリップの計画では、ネイティブは「植民地帝国の同盟者であり友人となる」予定だった。フィリップは宣教師が入った後にイギリス帝国が領土拡張するというシナリオを描いた。しかし、彼の目的はコイサン人の領土を植民地化することではなく、あくまで、それらを保護することにあった。

本章は一九世紀に人道主義が、アフリカにおいて植民地の理論体系の形成に深く関与したことを明らかにした。もちろん、アフリカでの英領植民地の拡大が人道主義だけに基づくとか、宣教師のみによってもたらされたなどと主張するつもりはない。そうではなくて、本章が指摘したのは、人道主義が意図するかしないかにかかわらず、アフリカでの植民地統治を正当化するとともに、対象社会の性質を規定し、植民地トラスティーシップの政治制度の設計にまで深く関与したということである。人道主義はイギリス帝国の権力から一定の距離をとることはなかった。むしろ、人道主義は積極的にイギリス帝国の権力が人道的な問題の改善に取り組むよう、働きかけたのである。その結果、人道主義は帝国の地政学に進んで巻き込まれた。逆に植民地帝国の存在は、宣教師が人道主義を追求するうえでの大前提だった。人道主義の意味内容は、帝国を中心とした権力秩序によって規定されていたのである。その意味で、植民地トラスティーシップと人道主義は、アフリカにおいても相互構成的な関係であった。
本章が明らかにしたように、アフリカをめぐるトラスティーシップの言説構造には二種類あった。一九世紀の反奴隷運動は、奴隷商人だけでなく、アフリカ人自身も奴隷を供給している点で奴隷貿易の「支持者」と捉えた。人道主義者は、アフリカ人が野蛮であるため他のアフリカ人を襲い捕獲し、奴隷として売却していると指摘し、彼らには道徳心がなく、農業技術も欠如していると主張した。この病理化に基づき、アフリカでの耕作、キリスト教化、文明化が処方箋として提案された。これに対して、ネイティブ保護運動の活動家は、ヨーロッパ植民者が南部アフリカの人道的危機の根本原因であるとした。けれども、帝国政府によるネイティブ保護を求める一方で、アフリカ人が帝国内で権利を享受するためには、彼らを社会改良によって帝国の臣民に変える必要があると主張した。そのため、ネイティブ保護運動もまた奴隷解放運動と同様に、植民地化と社会改良をともに正当化したのであった。

第3章 トラスティーシップの国際化と人道主義

一九世紀末からは、帝国による植民地統治の正統性が様々な知識人や政治家によって疑問視されはじめた。彼らは帝国による植民地の拡張が戦争につながり、植民地統治が現地の人々の虐待につながると主張した。しかし、こうした帝国の批判者も植民地統治そのものの必要性を疑うことはなかった。彼らもまた、非ヨーロッパ人が文明化と生命の保護を必要としているという、一九世紀以来の人道主義の言説を共有していた。彼らは、国際組織による植民地の管理を人道主義の点で優れているとして、植民地帝国による統治の代替案として提案した。この植民地トラスティーシップの国際化は、非ヨーロッパ地域の再病理化を伴った。そして、最終的にこうした主張は、第一次大戦後のパリ講和会議で成立した委任統治制度につながった。

モレルの枠組みでは、アフリカ人は自分たちで自分たちの土地を耕し、自由に交易を行い、自然に発展していくとされた。宣教師たちが主張し続けたアフリカの文明化およびキリスト教化を、モレルは必ずしも支持しなかった。彼にとって国際組織による植民地の管理は、アフリカでの経済活動の自由を保障する国際保護領を意味した。モレルの計画は実現しなかったが、その構想は第一次大戦期に再度登場することになる。

南アフリカ戦争―帝国主義とトラスティーシップ
当時の植民地帝国秩序に変革をもたらすきっかけとなった事件がもうひとつある。一八九九年から三年間続いた南アフリカ戦争である。これがイギリス帝国の正統性を危機に陥れた。この戦争はイギリス帝国と二つのブール人共和国の間で起き、南部アフリカの幾つかの部族を巻き込んで行われた。J・A・ホブソン(J.A.Hobson)が「ジンゴイズムの心理学』(一九〇一年)で描いたように、イギリスの世論はこの戦争をめぐって分裂した。多くのイギリス人が好戦的になり、戦争の批判者を弾圧した。この戦争でイギリス帝国はなかなかブール人の軍隊を倒すことができず、遂には兵士だけでなく、ブール人の一般市民も攻撃の対象とするようになった。一九世紀に展開した人道主義外交にもかかわらず、イギリス帝国はこの戦争のなかで人道的危機を自ら引き起こしたのである。
南アフリカ戦争はイギリスの知識人に大きな影響を与え、帝国主義理論の形成につながった。ホブソンは一九〇二年に「帝国主義論」を発表し、帝国主義の二つの側面を分析してみせた。ホブソンによれば、金融界は余剰の資本を海外に投資し、植民地化を進めてきた。イギリス国内の経済構造は、富の不平等な分配という問題を抱えており、それが余剰の資本の蓄積につながっていると指摘する。余剰資本は非ヨーロッパ地域の植民地化を促進し、それが帝国間の植民地獲得競争につながり、国際秩序の不安定化をもたらす。帝国主義は金融界のみを益するにもかかわらず、大衆は金融界によるメディアの操作のために帝国主義を支持してしまう、とホブソンは主張した。
経済的分析に加えて、ホブソンは「帝国主義論」の第二部において、帝国主義の政治的側面について論じる。帝国主義は民主主義を世界に輸出するどころか、独裁を輸出する。さらに帝国主義はイギリスの民主主義を掘り崩している。帝国主義者は、余剰人口が移民するための植民地が必要だと主張するが、ヨーロッパの人口増加はそれほど急速ではなく、実際、ヨーロッパから植民地への移民は増加していない。また、帝国主義者は植民地化がネイティブの尊厳の保護に寄与し、キリスト教化も促進すると主張するが、実際には、コンゴの事件が示すように、まったく逆の事態を引き起こしていると批判する。このように、人道主義と安全保障の点から、帝国主義および植民地主義の正当化の論拠が否定された。
しかし、ホブソンは国際社会における植民地統治の必要性については決して否定せず、それを次のような理由から正当化した。第一に、ネイティブが天然資源を自分たちの力では利用できないとして、文明国による援助が必要であるとした。

文明国による植民地統治の必要性という考えは「道徳的な究極の基準、有機的統一体としての人類の福祉という概念」によって正当化された。この考えが示すように、ホブソンは功利主義とともに、一九世紀後半、最も影響力のあった知識人のひとりであるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)の社会進化論に影響されていた。第二に、植民地統治がなければ、ヨーロッパから「探検家、奴隷商人、海賊、財宝発掘屋、特許商人」などが訪れ、ネイティブを搾取したり虐待したりするだろう、と彼は主張する。第二章で論じたように、この植民地トラスティーシップの正当化は、一九世紀の反奴隷運動家が展開した言説と一致する。しかし、宣教師がイギリス帝国による植民地統治を最良の処方箋と捉えたのに対して、ホブソンはそのようには考えなかった。その代わり、彼は「劣等人種を教育する義務を文明国に課す真の国際委員会」を提案した。このように帝国主義の理論は、帝国による植民地統治を批判しながら、国際組織による植民地の管理を正当化した。こうした構想は、ラムゼイ・マクドナルド(Ramsay MacDonald)をはじめとする急進主義的政治家や知識人らにも共有された。

このように、左派の知識人および政治家と、一部の右派に属する知識人や政治家は、植民地帝国を人道主義や安全保障の観点から批判した。けれども、植民地統治の必要性については否定しなかった。むしろ、彼らの言説はアジアやアフリカを野蛮と表象することで病理化した。多くのビクトリア時代の知識人および政治家がそうであったように、彼らは植民地統治がネイティブの保護や文明化の最良の手段であると考えた。植民地帝国による統治に代えて、彼らが提案したものこそ、国際組織による植民地の管理だった。このようにこの時期、人道主義は植民地帝国の正統性を掘り崩す一方で、統治理念の正統性についてはむしろ基礎づける方向に機能した。

この当時植民地統の思想において最も影響力があったのが、大物植民地官僚フレデリック・ルガードが著した『熱帯アフリカにおける二重の委任』(一九三年)である。彼はこの著書の冒頭で、国の使命は植民地の文明化であると宣言する。文明化の使命は、具体的に言えば、現地で起きている奴隷獲得のための襲撃や奴隷売買の取り締まり、法制度の構築・監視、小作農の現地有力者からの保護、武器や酒類の規制、使われていない土地や資源の開発など、多岐にわたる。この文明化の使命の内容は、ルガードの著作にあるように、一九世紀に英領植民地で宣教師や植民地官僚、政治家が行った活動が徐々に化されたものであった。文明化の使命は、第一次大戦後、旧ドイツ植民などを対象とした制度に関する国際連盟規約に明文化され、国際的な規範となった。そして、文明の使命を内容とする統治原理は、イギリス帝国のなかで「トラスティーシップ」と呼ばれるようになった。
この統治原理とは別にルガードが理論化したのが、「間接統治」である。「トラスティーシップ」が植民地の正当化の原理だとすれば、間接統治は植民地統治の目的を達成するための手法に関わる原理だと言えよう。ルガードは、アフリカにおいては現地の首長を通じた統治が有効であるとした。ルガードの間接統治は民主的な地方自治を準備するものではなく、アフリカの近代化(西洋化)の影響をできる限り抑え込もうという意図を持つものだった。
この間接統治は、その後、植民地官僚で委任統治領タンガニーカの第二代総督を務めたドナルド・キャメロン(Donald Cameron)によって修正されつつ継承された。キャメロンはルガードと異なり、アフリカの近代化を受け入れ、民主的な地方自治への前段階として、そして、あくまでリベラリズムの規範に則って、現地の伝統的制度を利用することを提唱した。
「トラスティーシップ」という統治原理は、イギリス政府が作成した文書のなかでも明確に認められている。そのきっかけは、一九二〇年代に入って東アフリカで白人入植者が自治を要求し始めたことにあった。この問題は一九三〇年代以降も継続していくが、イギリス政府は一九二三年の時点で『ケニアのインド人」(通称、デボンシャー白書)において次のように宣言した。
保護領のウガンダのように、ケニア植民地でも、また委任統治領のタンガニーカでも、原住民のためのトラスティーシップという原理は確固たるものである。このトラスティーシップという最重要の義務は、これまで同様、植民地相の下で、帝国政府の代理人によって、そして彼らのみによって履行されていくであろう。

第4章 貧困と支配―開発トラスティーシップの出現

一九四〇年代における開発トラスティーシップの登場
植民地を開発するという理念は、間接統治に対するアンチテーゼだった。後者が現地の「伝統的」制度を保護したり創造しようとしたりしたのに対して、前者は対象とする共同体を西洋諸国が規定した発展経路に沿って改良しようとした。この点で、植民地開発の理念は間接統治が登場する以前の植民地統治への回帰にも見える。しかし、植民地開発は功利主義的な植民地主義とも異なる。なぜなら、植民地開発は政府が計画的な経済政策や福祉政策を通じて生活水準を引き上げ、積極的に社会や市場に介入するという新たな国家モデルに基づいていたからである。植民地開発は、大量の資源投資、インフラの建設、さらに農業技術、公衆衛生、教育制度の導入・改革などによって、植民地の現地共同体の改良を目的とした。

さらに、一九三〇年代後半から植民地統治における革新主義的政策を推進したのがフェビアン協会である。労働党員でフェビアン協会員であったアーサー・クリーチ・ジョーンズ(ArthurCreechJones)は一九三七年六月、議会において、「アフリカの素早い産業化に対応するべき時期が来たと思う」と述べ、アフリカでの労働者の急増を指摘するとともに、労働環境改善のための制度の拡充を提案した。クリーチ・ジョーンズはその後、フェビアン協会内部にフェビアン植民地局を創設し、組織的に革新主義的植民地政策を打ち出した。
そのフェビアン植民地局の中心的論客が南アフリカ出身のジャーナリストのリータ・ヒンデン(RitaHinden)だった。彼女はアフリカに近代的な貧困が発生していることを認識するとともに、その原因が資本の不足に由来すると論じた。それゆえヒンデンは、植民地に巨額の資本を注入し、イギリスの技術や知識を利用した開発の計画を策定・実施することを主張した。具体的には、この資本を基に道路、水道、電気などのインフラの整備を行い、さらに学校や病院といった社会サービスの制度を構築することを提案した。必要な額の資本は民間企業には提供困難か、さもなければ高い金利が設定されてしまうため、あくまでも国家が支出する必要があると論じた。
こうした植民地開発の理念は、保守党にも共有された。一九四五年、当時保守党の代表を務めていたC・E・ポンソンビー(C,E,Ponsonby)は「あらゆる政党が〔植民地における病気からの自由、欠乏からの自由を〔 イギリス政府が 〕保障する必要性については合意している」と述べている。

アンドリュー・ポーターらが指摘するように、第二次大戦後、植民地開発事業と帝国再建の事業は渾然一体となった。この自己利益の追求は決して人道主義と一致しないわけではない。イギリス本国から見れば、植民地との関係は「お互いがお互いを必要とする」関係だった。また、帝国の復興はアメリカにとっても重要だった。先に述べたように、アメリカは共産圏に対して資本主義陣営を強化しようとした。そのためには、ヨーロッパがアジアとアフリカの資源を利用することを許容する必要があった。このように植民地開発は、アジアとアフリカをイギリス帝国の再建のために利用することを目的としたものでもあった。

植民地開発の失敗
植民地統治の理論体系が間接統治から開発に変化したとき、植民地統治の実務もまたこの時期、変化した。実務上の変化は、一九四〇年に成立した植民地開発福祉法から始まった。一九二九年の時点で植民地開発法がすでに導入されてはいたが、一九四〇年法は一九二九年法の単なる延長ではなかった。S・コンスタンティン(S. Constantine)が指摘するように、「〔一九四〇年法の〕系譜は明らかに一九二九年法につながっているものの、強調されるべきなのは、〔一九二九年法との〕連続性よりも、その新しさで〔あった〕。

また、世銀とFAOは、同地域で生活用の穀物から商品作物への転換を促そうとした。そこで彼らはこの地域が大規模な市場へのアクセスを確保できるように、道路などのインフラを建設した。しかし、実際にはこの地域は市場から完全に隔絶していたわけではなかった。結局、道路の建設は地方の農民をエンパワーすることはなく、現地農業の余剰生産物の流通を確保するよりは、むしろ安い値段の食糧の輸入を促し、現地農業に被害を与えることにつながった。つまり、この地域はインフラの整備の結果、生産拠点ではなく、消費市場に変えられてしまったのである。
この時期、開発援助組織は、現地社会の分析を行う前に、すでに基本的な政策パッケージを用意していた。この種の失敗は様々な現場で指摘された。ジンバブエでの次のようなエピソードはその典型的な例である。
一九八一年のジンバブエでは、農業「開発」の職員が高い報酬で雇われたコンサルタントの到着と助言を熱心に待っているのを見て驚いた。このコンサルタントはどのようにジンバブエの農業が改良されるべきなのか、〔農業職員に]説明することになっていた。私〔ファーガソン]は、そのコンサルタントがジンバブエの農業について地元の農業職員が知らないことを何か知っているのかと尋ねた。すると驚いたことに職員は、そのコンサルタントはジンバブエについてはほとんど何も知らず、ずっとインドで働いてきたのだと答えた。「しかし彼は開発についてはよく知っているのです」と強調した。

キャサリン・コフィールド(Catherine Caufield)も同様に、インドの治水事業を分析し、世銀の援助を受けて実施された多くの治水事業で、期待された利益が出ないうえに、立ち退きを受けた人々が再定住の支援を受けられないまま放置されてきたこと、そして、立ち退きを拒否した人々が暴力を受けたことを指摘した。彼女は次のように述べる。「社会は富裕な市民に犠牲を払ってもらい、助けを必要とする市民を援助するものだろう。......しかし〔インドの〕大規模な灌漑事業ではそれとは反対のことをする傾向にある。つまり、貧しい者から取り上げ、富める者に与えるのである」。
さらに、一九七〇年代に実施されたナイジェリアのソコト川流域のバコロリ灌漑プロジェクトは、死傷者まで出すという、より悲惨な結果となった。ソコト川の大規模灌漑計画は一九六〇年代にFAOによって提案され、ダム建設は一九七五年から一九八二年まで実施された。十分な社会的・経済的調査がされないまま、工事の契約者は、水路や道路などの建設のために農地の収用を実行した。その結果、農民は農地を失っただけでなく、村の水源まで失ってしまった。実行した。その結果、現地農民は農地を失っただけでなく、村の水源まで失ってしまった。W・M・アダムズ(W. M. Adams)によれば、「一九七八年八月、補償未払いに対する最初の大きな抗議活動が行われた。••••••そして、一九七九年九月には農民と契約者の衝突が増加し始めた」。現地の農民による抵抗に対して、政府は弾圧を実行し、多くの死傷者を出すに至った。
このように、基本的な政策パッケージの誤った適用が現地の社会的・経済的制度を変え、政治的・社会的制度に大きな影響を与えた。そして、それが時として弱者の抑圧につながった。貧困削減という目標のもとに実施された計画は、必ずしもその目標を達成することができなかった。
植民地トラスティーシップが権威主義と親和的な関係にあったように、開発トラスティーシップもまた、権威主義との親和的関係を示した。国際援助組織は海外にいかなる領土も持っていなかったし、正式な植民地も持っていなかった。しかしその代わり、援助組織は低開発地域の権威主義体制を強化する傾向にあった。そして同時に、対象地域を経済的・社会的に国際援助に依存させた。先に挙げたターバ・ツェーカ開発計画の事例では、開発計画がレソトの中央集権化に寄与した。当初の予定では、地方の人々による開発計画への参加を促すとともに、その地方に決定権限を部分的に移譲するはずだった。しかし中央政府がそうした地方分権の計画に頑強に抵抗し、実行を妨げた。さらにターバ・ツェーカと首都をつなぐ道路の建設と新しい地方行政制度の構築が、レソトの中央政府の権力を強化することにつながった。インフラの整備が結果として中央集権化に寄与したのとは別に、世銀が権威主義政権を直接的に経済支援する事例もしばしばあった。例えば、世銀がフィリピンの権威主義的なフェルディナンド・マルコス(Ferdinand Marcos)政権に経済支援を与え続け、権力の維持に寄与したことはよく知られている。
こうした傾向は、二国間の開発援助では一層明瞭だった。ダグ・ポーター(Doug Porter)が明らかにしたところでは、フィリピンとオーストラリアの開発プロジェクトによって一九七四年に着手されたサンボアンガ・デル・スル州開発計画(ZDSDP)もまた、権威主義に親和的な傾向を示した。この計画の中期評価チームは次のように論じた。「業務機関の集権化が促進されるべきである。......そのような集権化を促進することが本計画の目的たるべきである」。実際、この計画によって中央集権化が進んだ。ポーターは「結果的に、中央集権化された制度上の権限が、マルコス大統領が議長である国家統合地域開発委員会を通じて、州レベル、続いて国レベルで強化された」と指摘する。マルコスの権威主義的体制は日本によっても強化された。一九八六年にマルコス体制が崩壊したとき、マルコスが日本のフィリピンへの貸し付けにまつわるリベートを受け取っていたことが明らかにされた。
開発援助はまた、現地政府の市民に対する基本的なサービスの提供能力を低下させた。一九六〇年代、国際援助はプログラム型の援助からプロジェクト型の援助へ移行した。後者は開発援助のより明確な目的を必要とし、開発援助機関による詳細なモニタリングと評価を要求した。そして、これらの援助計画は被援助国からも多くの資源を必要とした。特に、被援助国は援助組織に対する受け入れ態勢を整え、現地スタッフを提供せねばならなかった。また、大量の報告書提出の義務が課せられた。その結果、現地政府が市民に対する基本的サービスを行うために必要な行政資源を奪われてしまった。エリオット・モース(Elliott Morss)は、「一九七〇年代の開発援助とそれ以前の数十年間の開発援助との最も重要な差異は、地方の貧困や「参加型」アプローチを強調したことではなく、援助国とプロジェクトの急増によって〔被援助国の〕「制度破壊」が起きたことである」と指摘する。
このように開発トラスティーシップは、権威主義体制を強化したり、被援助国のサービス提供能力を弱めたりして、地方の政治・社会制度を大きく変えた。これらの変化がしばしば被援助国の市民のディスエンパワーメントにつながった。こうした点では、一九六〇一七〇年代の開発トラスティーシップもまた、それまでのトラスティーシップ同様、強い権力性を示していたと言えよう。

世銀の「サブサハラ・アフリカ危機から持続可能な成長へ』と題された報告書では、次のように論じられた。
アフリカの非常に多くの開発問題の根底にあるのは、ガバナンスの危機である。......・・・対抗する権力が欠如しているため、多くの国々で国家の役人たちが説明責任を求められる心配なしに自己利益を追求してきた。全権を有する国家が組織的な失敗に対して説明責任を果たすようになるのではなく、各人が自己防衛のために私的な影響力のネットワークの構築を進めてきた。このように、政治は私的なものになり、利益供与が権力を維持するために重要となるのである。
この報告書はバーグ報告書と異なり、「貧困」を開発にあたって取り組むべき重要な問題として認めた。そして同報告書は、それまでと打って変わって「一九八〇年代初頭の経済危機は、ベーシックニーズ・プログラムから注意をそらした。これが間違いだった。不況のなかでも人間生活にとって最低限のニーズを満たすための支出を守るべく、あらゆる努力がなされるべきなのである」と主張した。
この新たな(しかし内容は必ずしも新しくはない)病理化は、見た目に新しい処方箋である「良き統治」(good governance)の理念につながる。この時期、アメリカは援助と引き換えに、民主化や多党制の選挙を要求し始めた。世銀は従来、ガバナンスの改革に取り組むことに消極的だったが、「良き統治」を新しいアプローチとして採用し、効果的に市場を管理する公的制度が経済成長にとって重要であるという認識を示した。ランカスターが指摘するように、「〔開発援助機関は]民主主義のような特定の政治体制を押し出したわけではなかった」。しかし、彼らは説明責任、透明性、法の支配を援助の条件とした。ミック・ムーア(Mick Moore)が論じるように、「イデオロギーのレベルでは、開発援助機関がガバナンスの不十分さを強調することが、国際システムにおける国家の根本的な平等という前提を否定することにつながる」。その意味で、非対称な権力と介入の場としてのトラスティーシップは生産され続けたのである。
このように一九八〇年代以降、開発トラスティーシップはより介入的になった。しかし本章が明らにしたように、脱植民地化後の開発トラスティーシップは、一九六〇年代末からすでに社会改良政策実施してきた。そして、貧困の言説が植民地トラスティーシップを再生産したとき、国際援助機関はの権力の強力な基礎を確立したのであった。

結論
本章はどのように開発トラスティーシップが出現し、発展してきたのか、また人道主義の言説がその過程でどのような役割を果たしたのかについて検討した。第二次大戦中、植民地トラスティーシップの正統性が再び問題になると、イギリス帝国は貧困の言説を利用して植民地社会を病理化した。その結果開発トラスティーシップが登場したのである。この時期、「貧困」は無視できない人間の痛みとして認識された。

第5章 人道的危機と介入―冷戦後の平和構築トラスティーシップ

紛争の背景
カンボジア内戦の開始は、一九六〇年代のベトナム戦争と密接に関係している。この時期、カンボジアには国を追われたベトナムの共産主義者が大量に流入した。そこで一九六九年、ニクソン政権のアメリカはカンボジアの国境地帯に空爆を開始した。一九七〇年、カンボジアのシアヌーク(N. Sihanouk)政権がクーデタによって倒されると、今度はロン・ノル(Lon Nol)政権が成立し、アメリカの支援を受けた。ベトナムとカンボジアの共産主義者、さらにアメリカと南ベトナムの軍隊が国中に散らばり、カンボジアはベトナム戦争のもうひとつの戦場となった。その結果、ロン・ノル政権は特に地方での支配権を失い、一九七五年には共産ゲリラ組織クメール・ルージュが首都を制圧した。ペン・キーナン(Ben Kiernan)は次のように指摘する。
ポル・ポトの革命はもちろん現地社会から出てきたものだが、一九六六年以降のアメリカによって引き起こされたカンボジアの経済的・軍事的不安定化なくして、ポル・ポトが政権をとることはできなかっただろう。この不安定化は、アメリカが隣国ベトナムで戦争を激化させ、それが一九六九年から一九七三年にかけて頂点を迎え、そして、Bがカンボジアの地方でじゅうたん爆撃を実施した結果であった。これがおそらくポル・ポトを政権に導いた最も重要で唯一の要因だった。
一九七〇年代末、クメール・ルージュは大量虐殺を実行に移した。この政策で、およそ二〇〇万人の人々が組織的に殺害された。[* 当時、アメリカのカーター政権は、カンボジアの事態に気づいていた。ケントン・クライマー(Kenton Clymer)が指摘するところでは、「ポル・ポトがカンボジアを掌握する以前でさえ、アメリカ政府はクメール・ルージュが残虐であるという実質的な証拠を持っていた」。]
ところが、アメリカはそれに抗議することはなかった。カーターが外交政策の中心に人権の保護を掲げていたにもかかわらず、である。その最大の理由は、アメリカが中国との関係を維持しようとしたためである。一九七八年一二月、ベトナムがカンボジアに侵攻し、プノンペンに新政権を樹立した。この介入の動機は人道主義ではなかったが、介入によってクメール・ルージュの大量虐殺が停止したこともまた事実だった。しかし、アメリカはこの介入を支持しなかった。それどころか、国家安全保障担当補佐官を務めていたズビグネフ・ブレジンスキー(Zbigniew Brzezinski)は「われわれはカンボジアからベトナムの軍隊を撤退させるべく、ベトナムに外交的圧力をかけねばならない」と主張した。さらに、一九七九年に中国の軍隊がベトナムに侵攻したが、アメリカはそれを批判しなかった。アメリカはソ連に支援されたベトナムがこれ以上強くなることを望まなかったためである。クライマーが指摘するように、「あらゆることが地政学的見地から検討されたのであった」。 冷戦が終焉するまで、アメリカは大量虐殺の調査の実施に抵抗し、クメール・ルージュに対する外交的な批判も口にしなかった。
冷戦構造が崩壊に近づくにつれ、ようやく西側諸国、ソ連、中国、そして他の近隣諸国がカンボジア問題に取り組み始めた。一九八六年、ミハイル・ゴルバチョフ(Mikhail Gorbachev)がカンボジア紛争の解決を演説のなかで訴えた。そして一九八九年には、ベトナムがカンボジアから撤退し、フランスとインドネシアが共同議長となってパリ会議が開催された。しかし、そこでの交渉では、紛争当事者も当事者を支援した大国も権力の分有に関して合意に至らず、失敗に終わる。 一九八九年にはまだアメリカと中国はクメール・ルージュを支援していたのである。一九九〇年、様々な交渉が実施された結果、遂にアメリカ、中国、ベトナムといった大国が妥協の必要性を認めた。そして、国連安保理の常任理事国と紛争当事者が和平計画を受け入れた。この和平計画では「自由で公正な選挙を行うための「中立な政治環境」にとって重要な、外交、防衛、治安、情報、財政といった行政五部門を国連が「直接管理」することになっていた」。
国連の暫定統治計画は、権力分有をめぐる争いの解決を目指した。この計画は、アメリカの民主党議員スティーブン・ソラーツ(Stephen Solarz)と、当時オーストラリアの外相を務めていたギャレス・エバンスによって提案されたものだった。エバンスは、前節で見たように一九九〇年代後半、ICISSのメンバーとなる。彼は当時から「効果的なグローバル・ガバナンスにおいて国際法が中心的な役割を果たすと固く信じていた」。そして、「国連を、世界平和を促進し正義を司るエージェントとして大義のなかに位置づけていた」。
当時、アメリカでは、ジョージ・H・W・ブッシュ(父)政権がカンボジアに対する外交政策、特に「ジェノサイドに対する無関心」を批判されていた。さらに一九九〇年二月、「下院議会は四一三対〇で、ブッシュ政権に〔フンシンペック党、クメール人民民族解放戦線、民主カンプチア(クメール・ルージュ)、カンボジア人民党による〕「四党統治」を選択肢から外し、国連を中心とした監督つきの暫定統治の選択肢をとるように主張した」。この計画はアメリカと中国の地政学的利益にも資するものだった。それというのも、ベトナムによって設立されたカンボジア政府を牽制する手助けとなりえるからであった。

本書が示したように、人道主義はトラスティーシップの構成に寄与し、逆にトラスティーシップは植民地時代以来一貫して(もちろん内容が全く同じというわけではないにしても)道徳的正当化を必要とし、そのために人道主義を利用してきた。本書におけるトラスティーシップは序章で定義づけたように、特定の歴史的実践を指すのではなく、国際社会における非対称な権力関係および介入の場を指した。人道主義は人の痛みを軽減しようとする際に、この非対称な権力関係を再生産し、介入の場を構成する機能があった。
人道主義がトラスティーシップを構成する時、介入や統治の対象となる社会は、自分たちでは治癒できない問題を抱えた存在として表象された。本書ではそれを病理化と呼んだ。そして、それに対する処方箋として様々なかたちの介入や統治が提案され、実施された。
一九世紀の英領インドの事例では、インドの人々は野蛮と独裁に苦しんでいるとされ、その解放には文明国による社会改良と善意の独裁が必要であるとされた。しかし、人道主義的言説が一方的にインドでの植民地トラスティーシップを構成したわけではなく、すでに成立していた植民地統治を前提にして処方箋が構成された。大反乱の後でさえ、植民地トラスティーシップは消滅することはなく、インド社会は再び人道主義の言説によって病理化され、トラスティーシップの目的が再設定された。今度はインド社会を無秩序から保護することがその目的とされた。

このように、いずれの時期においても人道主義は国際社会の非対称な権力関係と介入の場(つまりトラ スティーシップ)の構成に深く関与してきた。そして、国際社会の非対称性が人道主義の言説の前提とし て受容されてきた。つまり、両者は相互に構成的だった。
本書では時折、人種主義の要素にも言及してきたが、その点も重要である。 人道主義と国際社会の非 対称性の相互構成的関係のなかで、人種主義は人道主義に歪みを与える要因として存在してきた。すな わち、特定の社会を病理化する際に、あるいは処方箋の構成や履行の際に、対象社会の認識を歪める要因のひとつが人種主義だった。

このように、人道主義とトラスティーシップとの関係はアンビバレントである。人道主義はトラスティーシップの正当性の確立に寄与する一方で、批判と改革の契機にもなった。その結果、トラスティーシップはずっと同じ形態で展開されることはなかった。本書の分析がもし正しいとすれば、今後の人道主義の発展もまた、不可避的に新しいかたちのトラスティーシップを発展させることになるだろう。

終章 人道主義の二分法を超えて

二文法を超えて
本書が明らかにした人道主義とトラスティーシップの相互構成的な関係は、先行研究に次のようなインパクトを与える。序章で論じたように、先行研究では「善なるトラスティーシップ」と「悪なるトラスティーシップ」を人道主義に沿って峻別してきた。「善なるトラスティーシップ」は人道主義を具体化した介入・統治で、「悪なるトラスティーシップ」は人道主義を濫用した介入・統治である。
しかし、人道主義とトラスティーシップが相互構成的な関係にあるとすれば、この二分法は適切ではない。人道主義は植民地主義の時代からトラスティーシップを構成してきた。脱植民地化後、植民地トラスティーシップは否定されたものの、人道主義はトラスティーシップの必要性そのものについては疑義を呈していない。人道主義は、自らがトラスティーシップの介入する側が地政学的利益を追求するのを手助けをしていると自覚したとしても、人道的な目的を達成するために「より少ない悪」としてトラ人道的な目的を達成するために「より少ない悪」としてトラスティーシップの非対称性を正当化する傾向にある。また、人道主義はすでに存在する権力構造、例えば宗主国/植民地などを前提にして処方箋を構成する傾向にあるため、政治や権力といったものから必ずしも自由ではない。それゆえ、人道主義が「善なるトラスティーシップ」と「悪なるトラスティーシップ」を峻別する客観的基準を提供することは難しい。
さらにトラスティーシップの二分法に加えて、一部の先行研究が前提とする人道主義の二分法も問題である。先行研究では、「政治から切り離された人道主義」と「政治によって濫用された人道主義」の二種類があるとされた。しかし本書が示すように、トラスティーシップをめぐっては、地政学的関心と人道主義的関心を峻別することは困難である。人道主義は地政学的利益を規定する一方、地政学的関心は人道的危機の認識を歪める。何が人道的危機で、何が人道的危機に当たらないのか。人道的危機に対応するために、どのような介入や統治が許容されるのか。歴史的な事例に鑑みれば、常にその基準は不安定で曖昧で、様々なバイアス(例えば人種主義)や政治的力学に影響されてきた。このように、人道主義は普遍的でも中立でもないのである。
本書が主張したいのは、人道主義を棄てよ、ということではない。そうではなくて、人道主義的言説を用いる際、その人道主義的言説がどのような性質のものなのか、よく吟味する必要があるということなのである。本書は幾つかの人道主義的言説のパターンとそれに伴う権力性を明らかにした。そして、それを通じて、人道主義的言説を用いるうえで不可欠な参照点を提供したつもりである。

トラスティーシップとどう向き合うか
ところで、本書はトラスティーシップという概念で国際社会における非対称性を分析してきた。国際社会の非対称性に関する国際関係論の研究は、近年少しずつ蓄積されつつある。その多くが国際社会のヒエラルヒーに注目する。本書は人道主義とトラスティーシップの関係に射程を絞ったため、ヒエラルヒー一般の研究との関係については触れなかった。それでも一言ここで付け加えるならば、本書は、中心的な権威が存在しない国際社会のなかで、トラスティーシップという部分的に階層的な秩序が度々形成されてきたことを明らかにした。その点で本書の内容は、国際社会においてヒエラルヒーとアナーキーが共存してきたというジョン・M・ホブソン(John M. Hobson)とJ・C・シャーマン(J. C. Sharman)の指摘や、ヒエラルヒーも国際社会の制度の一部であるというイアン・クラーク(Ian Clark)の指摘と一致(NN)する。
では、トラスティーシップは国際社会の制度として正当化され得るだろうか。トラスティーシップと人道主義の相互構成的関係を明らかにした後でさえ、人道主義によるトラスティーシップの正当化を受け入れられるだろうか。「べき論」をできる限り避けてきた本書からすれば、この問いはこれまでの流れから逸脱するものではある。それでもあえて、この問いについて最後に考えてみたい。
人道主義はトラスティーシップの権力の源泉である。そして、人道主義は普遍的でも中立でもない。そのように理解しつつも、人道主義それ自体を否定することは難しいし、それが好ましいとも思えない。ミシェル・フーコー(Michell Foucault)は社会に存在するミクロな権力を暴露しつつも、その権力の再生に関わっていると見られる人道主義については否定しなかった。むしろ彼は、「人道主義と主権の関係が問題にされた場合、人道主義の再政治化を提案した」。
本書の示唆はフーコーの提案と似ている。現代に生きる人間にとって、共感は人間の痛みに対する通常の反応である。もし、いかなる基準も規範も拒絶するならば、その時、人はニヒリストになる。あるいは、もしトラスティーシップと人道主義を誰かに対する抑圧のゆえに批判するならば、その批判もまた何らかの人道主義を採用していることになる。本書の最も重要な示唆は、トラスティーシップと人道主義につきまとう潜在的な危険性を認識すべきである、というやや消極的なものだ。フーコーは次のように述べている。
私が言いたいのは、何もかも悪だというのではなくて、何もかも危険だということなのです。それは悪ということと同じではありません。もし何もかもが危険だとすれば、その時、われわれは常に何かすべきことがあるのです。だから、私の立場は無関心ではなく、超・悲観的な行動主義ということになります。
筆者の立場もまたフーコーのそれに近い。人道主義は容易に独裁や抑圧の正当化につながってしまう。
だから、人道主義が何もかも「より少ない悪」で済ませてしまわないように気をつけておく必要がある。 トラスティーシップは介入される側の抑圧を伴う傾向にある。さらに、それは国際社会における政治 的・経済的権力の不平等な分配を是正せず、再生産してしまいがちである。人道主義によるトラスティ ーシップの正当化を受け入れる前に、トラスティーシップがこれまでの歴史のなかで何を達成し、何を 達成できなかったのか冷静に検討しておくべきである。
トラスティーシップにおける最も重大な問題は、介入する側(例えば、先進国)と介入される側(例えば、 途上国や紛争後社会)の間の境界線やヒエラルヒーを再生産してきたことである。この構造では、介入さ れる側は政治的エージェンシーを剥奪される傾向にある。彼らは観察され、調査され、そして処方箋を 与えられる。この権力の非対称性と民族浄化などの人間の痛みを比較する場合、ことによると、われわ れは前者の欠点をより少ない悪として受け入れるかもしれない。しかし、この理屈を焦って受け入れる べきではない。本書が明らかにしたように、「支配を受け容れるか、それとも無秩序および独裁の暴力 に耐えるか」という二分法こそ、古くから存在するヘゲモニックな言説構造の一部なのである。むしろ 次のように問うべきではないか。すなわち、介入する側にはいかなる病理もないのか、また途上国や紛 争地域の病理と介入する側はまったく無関係なのか、と。
これまでの歴史的教訓や再帰的なプロセスに鑑みて、ここでは人道主義的言説によって思考停止に陥ってはならないと主張したい。人道的な危機を解決したいからと言って、簡単に介入や統治を正当化すべきではない。本書が明らかにしたように、介入や統治という処方箋は問題を悪化させることも少なくなかった。だがその一方で、トラスティーシップをなくせば問題が解決するというつもりもない。そうではなくて、現在のところ、トラスティーシップの権力構造を不断に問い続け、その非対称性に伴う問題を漸進的に軽減し続けるより他にないのではないか。人道主義の要請のもとで、トラスティーシップはこれまで何度も改革されてきた。これからもトラスティーシップに内在する矛盾を人道主義の視点から明らかにし、改革していく必要がある。それゆえ、本書の回答はニヒリズムでも革命主義でもなく、思慮と漸進的改革ということになる。

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