4.恩人、和田惟政と高槻

 政情が不安定となり、京都での生活が安全ではなくなると、フロイスは堺に逃れていた。和田惟政が堺にフロイスを訪ねて知己の仲になると、労を惜しまず都に帰るために尽力する。フロイスを連れて岐阜城に信長を訪ね、城内では自らフロイスらを接待し、また、二条城の建設現場に信長との会見も仲介した。

 和田惟政の領内、高槻ではキリシタンを保護していたが、自分自身は洗礼を受けていない。おそらくは、洗礼を受けないことを選んでいた人であろう。フロイスは恩人の教化を常に計って、洗礼を受けさせたかったが、それは果たされないままに惟政は戦死する運命を迎えた。


(1)高槻城跡と歴史民族資料館
(2)和田惟政の墓石(伊勢寺)
(3)集団墓地の発掘とロザリオ
(4)しろあと歴史館

 高槻城跡と高槻市立歴史民俗資料館

大阪府高槻市城内町3-10 城跡公園内 無料 月曜と祝翌日休

 一般的な展示内容だが、無料。

 和田惟政の墓石

高槻市奥天神町1丁目1-19 伊勢寺

 高槻城跡で発見された和田惟政の墓石は現在、近隣にある伊勢寺に移されている。惟政は近江の甲賀郡和田出身の武士で高槻城主となったが、戦いに敗れ討死し、後に高槻は髙山右近が治めることになる。

 高槻で発掘された集団墓地とロザリオ

現在の野見神社付近 高槻市野見町6-6

 1998年、高山右近の「天主教会堂跡」の東方、高槻城跡地の高槻商工会議所会館敷地などからキリシタンの集団墓地が発掘された。ロザリオは死者の手首にかけられた状態でみつかり、「高山飛騨守(高山ダリオ(友照))が京都からロクロ師を呼び寄せてつくらせた」というフロイスの記録を裏付ける遺物だった。

 神社の敷地を転用して神社を破壊して教会を建て、その後に教会が破壊されて、そしてまた、現在の野見神社が建てられたということなのだろう。高山右近が領内の寺や神社をすべて破壊してしまったことは、後述の「施薬院全宗」の恨みを買うことになる一因になったと考えられる。

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上:発掘された状態。中:復元されたロザリオ。下:集団墓地(現在は埋め戻されてマンションが建っている。)(写真は高槻市HP 下のlink先)

(4)高槻市立しろあと歴史館

高槻城三の丸跡 無料 月曜と祝日の翌日、年末年始休

 棺の板と遺骨、ロザリオが展示されている。

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 棺は松材で板厚は1cm程度。蓋には十字の縦線の上に横線を付けた「二支十字」が書かれている。更に右下に点が添えられていた。点の意味は不明。「二支十字」(干十字ともいう)は「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」とローマ帝国ユダヤ総督ピラトが記させたというイエスに対する罪状書きを意味しているという。


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