9.細川ガラシヤの丹後味土野女城伝説

 本能寺の変が起こると、細川玉子(後のガラシヤ)(1563年-1600年8月25日)は「みどの」で隠棲生活を送ることになる。細川玉子は明智光秀の娘で、20歳から秀吉が大阪城下に呼び寄せるまでの2年間、「みどの」で満たされることのない禅を学びながら過ごした。
 「みどの」は丹後半島の最奥の山中「味土野」(京丹後市弥栄町須川)であるとこれまで信じられてきた。人間の営みを拒絶する急峻な峰に女城と男城を分け女城を監視したといい伝えられた。

 2019年に地元の高校生らが訪れる人のための庵を造るのを機に発掘調査が行われた。ところが、生活の痕跡を示すものは何も発掘されず、そこで玉子が隠棲していた可能性は限りなく低い結果となった。
 一方で、明智領の丹波に、現在は残されていない「三戸野」の地名がある。発掘調査の結果を考えれば、隠棲していた場所は細川領の丹後ではなく明智領の丹波である可能性が高くなった。本能寺の変で身柄は明智へ返されたことになる。


 『彼女の舅は...常に我らの教えに反対の立場を取って...妻や嫁とともに丹後の国にいて...禅宗に励むことを...努めとしていた。...禅宗徒にはある独特な考え方があって...自分たちの許に救いを哀願してくる者に対しては憐れむかのように振る舞った。そして自分たちだけが真理の真髄を究め...ているかのように信じていた。...後に彼女(自ら)が言っていたように、(修行によって)会得したことは精神をまったく落ち着かせたり良心の呵責を焼却せしめるほど強くも厳しくもなかった。それどころか...深い疑惑と暗闇に陥っていた。』(五畿内篇Ⅲ第62章)


 人生の経験と感情の積み重ねが人間を成長させていく。ところが、その「価値の基準」が人により異なるために、この夫婦は正反対の方向に歩んでいく。「当初(彼らは)似合いの夫婦であり...」「品位があり」「(禅宗の)知識において”モンスター”(超人的)だった」というのが、フロイスの”ガラシヤ”人物評。”絶世の美女で相思相愛の夫婦”とはどこにも書いていない。玉が抱えていた良心の呵責とは何だったのか。

 五畿内篇Ⅲ第62章では禅宗に対する辛口の筆が冴える。次を教えるのに次々とお金を要求して結局何も教えてもらえないと。つまり難しくして解らなくしているだけで本当は何も知らないと。そして、禅宗どころか華道や茶道、日本のお稽古ごと全体にいえることだが…。


(1)丹後の味土野
(2)丹波の水戸
(3)ヘルマンホイヴェルスの紀行と査察


 (1)味土野 

 ”細川ガラシヤ”は本能寺の変の後は丹波国船井郡三戸野で暮らしており、「丹後味土野幽閉説」や「味土野女城」は、史実としては根拠の乏しい伝説であると考えられるようになったが、それが確かな事実であったと信じられて丹後味土野についての旅行記ブログはたくさんある。
 総人口も現代よりはるかに少なかった当時、「丹後のヒマラヤ」と例えられるような山中に、監視と警備を仕事にする男達の家と別の峰で監視されて暮らす若い女達の家の生活が成り立つかどうか考えてみよう。男と女が暮らす場所を峰で分ける伝説に虚構はある。そして、夫の強い嫉妬と猜疑心がその伝説にも表現されている。
 剥き出しの自然の中で暮らすためには、常に自然との闘いになる。夏は獣害や虫害に悩まされ冬季は2mを超える雪で閉ざされる。こうした環境での人の生活はふつう谷に営まれ峰には成立しない。2年間をここで過ごすことを考えてみれば、禅を学び暮らすような環境ではないことがわかる。


味土野幽閉説を疑う


 (2)船井郡京丹波町水戸

 現在の京都府船井郡京丹波町新水戸観音峠トンネル(国道9号)があり、ここは、「三戸野(みとの)峠」といった。この先の水戸には谷になだらかな丘陵があり現在も田畑が耕されて過疎化で少ないながらも人の営みがある。

 貝原益軒の紀行文「西北紀行」には、「三戸野嶺(みとのたうげ)上下一里あり。坂は嶮(けは)しからず。坂の上に民家あり。其所を嶺(たうげ)と云。俗に云、山椒大夫が関をすゑし所也。」と紹介されている。江戸時代には山陰街道で賑わいがあり、頂上付近にある観音堂で旅人が疲れを癒やしたことから、観音峠の名に変わっていったと考えられている。

 細川家の歴史書である「綿考輯録」には、「一色宗右衛門と云浪士幷小侍従と云ふ侍女此二人計を付て、丹波之内山中三戸野(注:一書丹後国上戸(みと)村の名)と云所へ、惟任家の茶屋有しに送り被遣候」と記録されている。「明智軍記」には「坂本ヨリ付来リケル池田六兵衛・一色宗右衛門・窪田次郎左衛門ヲ相添、丹波ノ国三戸野ト云フ山里迄ゾ送リ返シケル」とある。


 (3)ヘルマン・ホイヴェルスの紀行と査察

 ヘルマンホイヴェルスは、イエズズ会所属の司祭で大正12年に来日、第2代上智大学学長を務めたが、宗教啓発書の他に、作家、劇作家としての業績が多く、その一つに、戯曲「細川ガラシヤ夫人」を残した。
 昭和10年に、ガラシヤ隠棲地として、文献で残された船井郡京丹波町観音峠(三戸野峠)と、主に口伝として残されていた丹後味土野を取材旅行で訪れた結果、「丹後幽閉説」を主張した。「忠興が最愛の妻を自領奥深くに匿った」というこれまでの説明は作家であるホイヴェルスの文学上の願望であり虚構である。精緻な筆を走らせるフロイスの記述には全く別の史実が語られている。

 ヘルマンホイヴェルスは、都にも近く街道沿いである丹波三戸野は、ガラシヤを「幽閉」(「丹後州宮津府志」では、「忠興ノ妻女ヲ此所ニ押コメ置シト云」)するには値しないと判断した。また、襲撃を避けるにも向かないと考えた。一方の丹後味土野にはホイヴェルスの当時、近代の化石燃料に依存した開拓が進んで人は少なからず暮らしていた。

 刺客が明智玉を襲撃することを実際に想定してみよう。人が暮らせるのは限られた山中の点になるから、山中に分け入ることが刺客から逃げることにはならない。人里から離れていればいるほど探しやすく襲いやすい。一方、明智玉を刺客から守るには、地の利、人の利のある元明智領内の見晴らしの効く峠の茶屋(三戸野峠)は好適であっただろう。また、移り変わる世の中では、刺客を恐れることよりも、世情を把握しやすい峠の茶屋は最適な隠れ場所だったと言えるのではないだろうか。

 ヘルマンホイヴェルスらの文学から離れて、正確で詳述を極めるルイスフロイスの記録を基に読み解かなければ、明智玉の人物像を慮ることはできないはずである。残存する日本の資料は記録者の社会的立場から逃れることはない。明智玉と直接、手紙をやり取りして共にどうすれば良いのか心を砕き悩んだ人物はオルガンチノなのである。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?