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26-7

 通話を終えると、網屋はコートを脱ぎ始めた。

「相田、あの隙間、抜けられるか」

 後部座席の荷物に脱いだピーコートを被せ、助手席に置く。ついでに車内常備の予備弾倉をポーチごと引っ張り出す。
 あの隙間、とは自分達の車両と警察車両の間だ。狭くはないが広くもない。この大きな車で抜けるのは、普通の人間なら少し難しいだろう。

「行けます。そのまま通路に抜けちゃうんで大丈夫です」
「おっしゃ。もう一度確認。塩野先生が聖天さまんとこにいるから、迎えに行ってここまで戻ってきてくれ。なるべく早く」
「了解、なる早で」
「帰ってくる頃にはこの辺一帯封鎖されてるかもしれないが、塩野先生に任せておけばいい。多分なんとかしてくれる。俺もできる限り早く終わらせる」
「了解」
「タイミングは俺が出す。ドアを閉めたら出ろ。頼んだぞ」

 弾倉をポケットに詰め込めるだけ詰め込んで、空になったポーチを助手席の荷物の上に。ヘッドレストごとマフラーで巻き付け、シートベルトも装着させる。
 さて準備完了という瞬間に電話の着信。間髪入れずに出る。相手は塩野だ。

「はいもしもし」

 網屋の眉根が一瞬だが険しくなり、しかし「了解です」と返して、手短に通話は終わってしまう。

「どうしたんスか先輩」
「あー、うん、なるべく俺の証拠を残さないでくれって、塩野先生が」
「証拠?」
「薬莢とか、銃痕とか。結構さ、特定できちゃうんだわ。まあそうだよな、記憶を消すことはできても、物理的な証拠が残ってたら駄目だよな。ごめん相田、そっちに手袋しまってあるから出してくれる?」
「あいよ」

 グローブボックスから薄手の柔らかい革手袋を取り出した、その時だ。怒号が響いた。

「いいかげんにしてくださいよ!」

 元来の目標である例の敵、そのうちの誰かが、容赦なく大声を上げてなじっていた。

「本当に何考えてるんですか! まさかこの場でキャンディ食った訳じゃないですよね?」

 網屋の眉根が寄る。仲間割れか? だが、この場においては都合が良い。彼はそれをも利用することに決めた。

「相田、用意しとけ。ドアを閉めたらすぐに出ろ。いいな」
「あいよ」

 いよいよシグナル・ブラックアウトの時は近い。相田はキーを回し、エンジンを動かした。頭を上げても構わないか、網屋に無言で問う。頷きがひとつ。慎重に頭を上げ、長く息を吐き出す。スタートの瞬間だけに、意識を集中する。
 一方、網屋はその意識を音に向けていた。仲間割れが発生したということは、何らかの大きな動きがもう一度か二度は来るはずだ。ニューヨークで何度も経験した積み重ねと佐嶋の教えがそう告げている。行動を起こし自分達の流れを変えるのなら、そこしかチャンスは無い。銃撃は一時期的に止まっている。機を逃すわけには行かない。
 だが、転機は予想よりも遥かにひどい形で訪れた。

 唐突に銃声。一発。こちらに向けてではない、音の向きが違う。
 網屋も、相田も、警察陣も、皆すぐに悟った。敵は、己の仲間内を撃ったのだ。

 真っ白になりかけた意識を振り払って、網屋は素早くドアを閉めた。小さく「行け!」と告げて。 

 相田は迷いなくシフトを入れ、アクセルを踏み、ハンドルを切った。タイヤがコンクリートに噛み付いて、車体を大きく揺らした。ギリギリの隙間を抜け、立体駐車場特有の螺旋状になった通路へ突入する。カーブがきつい。その勾配も。だが。

「鈴鹿に! 比べりゃ! ずっと! マシ! だっつの!」

 サーキットのヘアピンカーブよりは遥かに優しい。相田にとっては。
 彼は速度を可能な限り殺さないまま、テンポよくハンドルを切り、加速し、減速し、瞬時に一階まで下りきってみせた。駐車場の出口は狭い裏道、しかも真正面には隣接する大きな寺のブロック塀。掠めるか。掠めなかった。大きな車体の軌道をほぼ直角に捻じ曲げ、しかし車体が塀にぶつかるなどということはない。
 響介がよくやってたから、真似してみたけど……できるもんだな。頭の中に浮かんだ言葉に、相田自身がほんのり驚く。ああそうか、もう響介は悲しみや辛さではないのか。思い出されるのはあの場面だけではないのか。そうか。そうだ。
 動かない響介の重みではない。開かない響介の目蓋ではない。

『ドアホ。俺のがもっと速いわ、目ぇカッ開いてよお見とけ』

 思い出の中の響介が、不敵に笑った。



 その頃一方、坂田は残った部下達に吐き出すように告げていた。

「いいか、こうなりたくなかったら、ここにいる人間を全員殺せ。一人残らず殺せ」

 冗談でも比喩でもないことを、足元に転がる同僚の死体が証明している。この人は本気だ。逆らえば死ぬのは自分だ。本当に、殺されるのだ。ぞわりと肌が粟立つ。とめどなく流れ出して足元に広がる、同僚の血。

「どんな手段を使ってもかまわん。いつも通りだ。とにかく殺せ。逃がすな。そうすれば全て丸く収まる」
「さっき逃げた奴らは?」
「後で対処する。寧ろ都合がいい。ここでやったことはあいつらに背負ってもらう」

 坂田の声色が冷めてゆくのが、部下達には分かった。熱に浮かされているような気配が消え、いつもの冷徹な上司へと戻ってゆく。故に、彼らは安堵してしまった。従えば良いのだと、納得してしまった。
 心のどこかで、そうでありたいと願ってしまったからだ。

「まずは、塚越達を散らす。あいつらはここから出られないはずだ。私が『全員殺す』と言ったからな。少なくとも、応援の連中が来るまでは動けない。一般市民の安全を優先するだろう」

 言うやいなや、坂田は猛烈な勢いで銃撃を始めた。残った部下達四人もそれに続く。

「向こうが散るなり動くなりしたらチャンスだ。追い詰めろ」

 これだけで十分だった。部下達は全員、坂田の言わんとしていることを理解した。一人が車内に戻り、他の連中に予備の弾倉を渡してゆく。中には二丁拳銃で攻撃を始める者もいる。これだけの勢いで撃ち続ければ、相手も否応なしに悟るだろう。


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恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。