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17-10

 翌週、月曜日。

 陣野病院に、部長室などという御大層なものは無い。事務仕事用の個人デスクはあるものの、個室などというもののために割く面積が存在しないからだ。
 であるから、ロッカーも皆同じ部屋に押し込められている。男性用と女性用でざっくりと分かれているだけだ。

「おっはよゥーイ」

 ドアを開けながら、塩野は妙な挨拶をした。中に人がいようといまいと、朝の挨拶をするのは既に癖と化している。
 中にチラホラと着替えている者がいる。そのうちの一人は目澤だった。

「目澤っち、はよーッス」
「おはよう。今日も元気だな」
「元気だよーう。僕から元気を取ったら眼鏡しか残んないよ」

 目澤の隣のロッカーが塩野の場所だ。微妙に硬いロッカーの扉を力一杯開けると、まずは小型ゲーム機を上の棚に放り込んだ。

「なんかさ、目澤っちも元気じゃない。なにかイイことあったー?」
「まあ、な」
「おっ、何だ何だー? 何があっ……」

 上着をハンガーにかけ、白衣を羽織ったところで目澤の顔を見た塩野は、凍ったように動きを止める。
 ボタンをとめていた目澤は、その視線に気が付いて顔を上げた。

「どうかしたか?」

 やたら険しい表情の塩野。訳が分からず、目澤は首を傾げる。それでも塩野は黙って顔を睨み続けていた。

「ど、どうしたんだ塩野」
「……僕のせいじゃないからね」

 突然の内容に目澤はついて行けない。首を傾げたままでいると、塩野は恨めしそうな表情のまま説明を始めた。

「僕がさ、身内に対して『覗かない』『いじらない』『壊さない』の三ナイ主義だってのは、目澤っちも知ってるよね」
「おう」
「それが今日、崩れた。十数年ぶりに崩れた」
「は?」
「ってーかね、僕じゃなくても分かる! 誰でも分かっちゃうよ! 覗き込むまでもないよ! そんな緩みきった顔でデレデレデレデレニヤニヤニヤニヤしてればね、バレバレなの!」

 これまた勢い良く音を立ててロッカーを閉めると、白衣のボタンをとめもしないで猛然と歩き出す。ロッカー室からの出際に振り向くと、「目澤っちがイケナイんだからね!」と捨て台詞を吐いた。
 そして、隣のデスクが置いてある部屋へと、叫びながら走り出したのだ。

「川路ちゃーん! 大変だァー! お赤飯案件発動だよォー!」

 お赤飯、という単語が何を指し示しているのか。一瞬遅れてから理解する目澤。

「……っちょ、塩野、おまっ、待て!」

 慌てて追いかけるが、隣からはもう中川路の声が漏れてきている。

「おうおうどうした。塩野の『てぇへんだ』はもう聞き飽きたぜぇ」
「それがてぇへんなんだよ親分! 目澤っちがさあ……」
「うわ、待て、塩野、塩野ぉぉ!」

 遅い。何もかもが遅い。既に塩野の耳打ちは終わっていて、中川路の顔は驚きを隠しきれていない。

「お、噂をすれば何とやらか。目澤、おめっとさん。赤飯買ってきてやろうか」
「いらん! 塩野は余計なことを言うな!」
「いいじゃーん、おめでたいことなんだからさぁー。ううっ、オイチャン嬉しくて涙出てくらァ」

 泣き真似をする塩野を殴り、ニヤニヤしている中川路もついでに殴って、それでも目澤の顔はリンゴの如く真っ赤だ。

「お前ら、言いふらしたりするなよ!」

 痛みに突っ伏す二人に、男子高校生かという物言いで念を押すが、当然そんなものが守られるはずがない。


 病院中に「目澤先生に彼女ができた」という情報が流れ、院長から直々に「土曜日、当直入れないでいいから」とお達しを受けるのは、この日の午後のことである。

                      17 ざるうどんと二人 終


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恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。