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22-10

 塩野も、既に仕事に取り掛かっていた。
 目の前には椅子に座る男。虚ろな目。口は半開きのまま。塩野の他にも数名の研究員。

「ヘーイヘーイ、聞こえるー?」

 塩野が顔の目の前で手を振りながら呼び掛けるが、反応は一切無い。

「ベルナルドさーん、聞こえたら返事してー」

 焦点が合わない瞳。左右の耳元で指を鳴らしてみるもこれまた無反応。ふう、と息を吐き出した塩野はパイプ椅子を引っ張ってくると、音を立てて座った。
 塩野で五人目だ。精神科医が次から次へとアプローチを仕掛けたが、何もない。精神科医という肩書を背負っているが、ここに集められた人間の大半が洗脳屋か解体屋か、その界隈の人間ばかりだ。

 塩野の前にアプローチを仕掛けたテシアス・ギルフォードは、大企業に雇われて人材を引き抜くことに特化した男だ。ある意味で実に洗脳屋の原点を行く人物であろう。基本的には金で動く男だったはずなのだが、ここにいるということは何かに絆されたか、それとも国連から金を毟り取ったか。あるいは、両方か。どちらにせよ、この場所が彼に似つかわしくないことは事実だ。
 そんな彼がここにいて、それでも太刀打ちできない。はっきり言って異常事態である。

 塩野は考えた。考える、というリアクションを目の前でしてみせた。

「どうしよっかなぁ。うーん、さて、どうしようかなぁ」

 勿論、反応はない。こちらの動きを認識していない。
 いや、違う。認識はしている。目は開いているからだ。瞳孔に異常はない。視界の隅に入っているはずだ。視覚で認識できても脳で処理していないだけ。処理を拒否しているのか、拒否させられているのか。
 どこから攻める? どこからつつく? 何なら反応する? 今までのメンバーも相当にあれやこれやの手を尽くしていた。反応が無かったのではなく、薄かっただけだろうか?
 ……そうだ、目だ。視界だ。

「君はアレを、見たよね」

 聞こえないのを分かっていながら塩野は呼びかける。脳で処理されなくてもよいのだ、音が鼓膜を叩いてさえいれば。聴覚が反応するという現象だけで今は十分だ。理解など後から追い付いてくるだろう。
 机の上に散らばる書類を探り、大きく引き伸ばされた写真を引っ張り出す。

「ほら、これ。これだよ。見たよね? 君はこれを直に見たんだよね?」

 瞳孔に反応有り。呼吸が僅かに乱れる。大当たりだ。

「おい塩野、壊れるぞ」

 すぐ背後に控えていたテシアスが小さな声で忠告するが。

「もう壊れてる」

 小さな声で返した。もしもこれ以上「壊れる」ことがあるのなら、そこを再構築してから展開できる。寧ろ、壊れる箇所があるのなら探るべきだ。

「君はこれを見て、何を思ったの?」

 この元イタリア海軍兵はかなりの近距離で対象物に接触した。そして真っ先に発狂した。何故彼が発狂したのか。何故他の人間は発狂しなかったのか。その境界すら分からない。
 彼は首を横に振る。初めて出た、明確な意思表示の行動だ。

「何を知ったの?」

 首を横に振るということは、即ち否定。塩野は賭けに打って出た。思想の否定ではなく、知り得たことに対する否定。
 踏み込め。暴け。一体何がその壁を作っているのか。暗闇の中で手探りする、その糸口を掴み取れ。こいつは壁だ。川の流れを遮るものだ。流れはある、せき止められているだけで枯渇してはいない。

「それは罪じゃない。罪悪なんかじゃない。そいつが許さなくても僕が許すよ。君は許されているんだ、君は大丈夫だ、いいんだよ、怖いかもしれないけど、大丈夫だから」

 写真を放り投げ、塩野は彼の手を取る。包み込んだ彼の手はほんの僅かに震えていた。恐怖だ。恐怖という反応があるということはその根底に常識や認識が息づいている証左だ。生きている。彼はまだ生きている。完全に壊れてはいない。

「大事なことは話さなくてもいい。いいんだ。ただ、僕はね、君とお話がしたいの。何でもいい、君の好きなもの、君の家族、君のお仕事、何でもいい。僕は、君のことが知りたいんだよ」

 内容は直近のことに絞る。過去の思い出から漁るのは今までの四人が散々仕掛けていた。彼等のアクションが十二分に効いていると信じて、塩野は表層から叩く。
 勿論、彼の家族構成など把握済みだ。彼の生い立ち、好物、性癖、煙草の銘柄まで、分かるものは何でも。しかし塩野はこの瞬間、それら全てを忘れている。彼と真正面から向き合って話している「ドクター塩野」は何も分からないまま、彼のことを心から心配して語りかけているのだ。
 その「喋っている男」を操作している「解体屋の塩野」は、相手をつぶさに観察している。目の動き、呼吸のテンポ、体温、鼓動、微かな動きさえ見逃さない。認識できる全てのものが判断材料。だから、全てを見逃すな。

「左足」

 塩野にだけ聞こえるように、小さな声でテシアスが告げる。彼から極力視線を逸らさないように、一瞬だけ左足を見る。爪先がかすかに動いていた。
 何処かへ行きたいのか。立ち上がりたい? それとも逃げ出したい?
 全身の筋肉量を見る。バランスから見て多分左利き。動いたのは左足。

「ここにアレは来ない。絶対に。約束しよう、この僕の命をかけて」

 握った手に力を込める。少しだけ、拘束のイメージを植え付ける。その拘束に身を委ねることによって得られる安堵感。ここにいても良いのだという許容。定められた逃げ道。依存による開放。温度と圧によって実感する他者の存在。
 さあ、委ねろ。こちらに身を投げ出せ。受け止めてやる。全部受け止めてやる。だから、こちらに合流しろ。安堵感で感情の堤防を決壊させろ。壊せ、その壁を!

「……あ……ああ……」

 表情が生まれる。悲しみのような、安堵のような、とにかく、それは無ではなかった。しかし、すぐにそれは別のもので塗り潰された。
 恐怖だ。
 恐怖一色に染まる。全て塗り潰される。取り返そうとしたが、シナプスを通る電気の速さには勝てない。神経洞窟(ニューロティックケイブ)が太すぎる。強固に繋がってしまったスパインが強制的に脳を恐怖へと導いてしまう。

「あああああああ! うわあああああああ!」

 叫び声を上げ始めた男。背後に控えていたスタッフが鎮静剤を打とうと動くが、塩野は許可を出さない。黙ったまま掌を向けて動かないように指示すると、じっと男を見つめた。他の精神科医達も同じように。
 男は叫ぶ。頭を抱え、部屋の隅にまで逃げ、うずくまり、震える。

「やはり逃避か。かなり強いな」
「目、よね。視線から逃げようとしている」
「あのおめめでしょ。眼球は最初から生成されてた内臓部位だものね」
「象徴的なもの、なのだろうか」
「もしくは最も重要な器官として働くのが眼球である」
「自己との一体化は無さそうだな、一安心だ」
「上書きされてるだけかもしれない。やっぱ強いんだよ、恐怖が」

 一通りの討論を終えると、塩野は振り向いてひとつ頷いた。スタッフが動き、男に鎮静剤を打つとすぐさま大人しくなった。

「……じゃ、次」

 連れて行かれる男を見送って、誰かが次を催促した。対象物に接することで精神に異常をきたしたのは合計十三名。先程の男性は最初の一人。まだ十二名控えているのだ。

 探れ。糸口を探れ。相手は人間だ、こちら側が手を出せる対象だ。生きてさえいれば手が届く。
 藻掻け、足掻け、触れろ、見ろ、言葉を掛け、聞き、動きを察しろ。呼吸のテンポを計れ。
 そこにいることこそが、何よりの証拠。何よりの材料。何もかもを利用しろ。利用できないものなど無い。日光も気温も湿度も明度も密度も騒音も臭気も、全て。
 生きてさえ、いるのなら。制御できないものなど存在しない。それが洗脳屋/解体屋だ。この世の全て、洗脳/解体出来ないものなどない。例えそれが、未知の恐怖であろうと。


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恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。