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 あの中川路が女遊びを止めた、という噂は瞬く間に広まった。何せ狭い世界だ、情報の伝達が速いのは仕方がない。熱を出したのか、だとか、天変地異が起こるぞ、だとか、それはもう全ての部署の人間から言いたい放題言われたが中川路はいなすばかりだ。それどころか、ニヤニヤ笑って「この島も平和になるぞ」などと言い放つのだから相当に浮かれているのが分かろう。
 ダーシャに関しては、塩野が何か話した後すっかり大人しくなった。何を話したのかは、塩野だけが知る所である。過保護、なのだろう。

 個人的な人間関係がどうなろうが、この島で行うことはたったひとつ。ミミックの対処、それだけだ。そのために集められたのだから他に無い。
 前にも増して、懸念要素が無くなったからなのかどうかは知らないが、中川路の研究はスムーズに進むようになった。タイミングが良かっただけかもしれない。月子に協力してもらったからなのかもしれない。今となっては何も分かりはしないが、とにかく順調に進んでいたのは確かだ。
 浮かれて、いたのかもしれない。分からない。もう、過去の話だから。




「そうだねえ、この頃は何ていうか、良い頃だったね」

 塩野がしみじみと言う。両の掌でブランデーグラスを包んで、中の氷を玩具のように回しながら。

「ほら、僕達って結局さ、研究バカ集団だったじゃない? その研究バカが研究だけやって、そんでその研究がさ、結果出るわけじゃん。それなりに。研究バカ冥利だったよね」
「そうだなあ。研究という悦楽の中にいたんだな、俺達は」

 そんな塩野のグラスに酒を注いで、目澤が言葉を繋げる。

「誰にも邪魔されずに研究にだけ打ち込める。もしかしたら俺達は皆、視界が狭くなっていたのかもしれない」
「視界、か」
「ああ。最終目的すら忘れて、目の前の現象だけに没頭できる。そんな環境なんて滅多に無かっただろう? あの島にはそれがあった。それが許される環境があった。だから……」

 言いかけて躊躇った言葉を、中川路がこじ開ける。

「だから、俺達は気付くことができなかった。市村に。今考えてみれば、引っかかる所はあったのかもしれない」
「例えば?」
「いつからだったか、一緒に飯を食わないようになったな……って思ってさ。厳密にはいつからだったか、思い出せないが」
「そう言えばそうだな。俺はてっきり、中川路と月子さんに配慮してのことだと思っていた」
「人目はばからずいちゃつくとか、そういうことはしなかったんだがなあ」
「だが、市村はそういう奴だろう。どこかこう、一歩引いて大人しくしているというか」

 話し込む中川路と目澤をよそに、塩野は彼らしくもなく黙って何かを考え込んでいる。彼の中で今になって、疑問が噴出し始めたのだ。
 何故、気付かなかったのか。仮にも解体屋たる己が、どうして全く分からなかったのか。「全く」という点がおかしい。有り得ない。しかし、その「あるはずがない」という現象自体が答えだと塩野は知っていた。
 手探りで暗闇の中を探る。ここが暗闇だと認識できたことが、まずは僥倖である。

「僥倖……偶然?」

 違う。偶然などない。必然によってこれは導かれるものである。
 探れ。探れ。どこかに答えが隠れている。俯瞰で見ろ。視野をもっと広く、広く。見えるはずだ、分かるはずだ、その感触が、実感が在る。視界に入っていないだけで、もう自分は「知っているはずだ」。

 闇の中で何かに躓いたような感覚が、塩野を襲った。
 これは一体、何だ?


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恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。