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 熊谷市街、熊谷警察署。昼。
 職員用休憩所に、一人の女がいる。
 三十代前半といったところか。緩いウェーブを描くロングヘアを無造作に束ね、前髪もポンパドールにして上げている。スレンダーな体をパンツスーツに包み、ツーポイントの眼鏡を掛けて、長いソファーの隅に座っていた。膝の上には小さなトートバッグ。
 名を、立花彩(たちばなあや)という。この熊谷警察署の刑事課に所属する警察官だ。

 トートバッグの中身は弁当箱である。小さい水筒も一緒に入っていた。水筒は横に置いて、膝の上に弁当箱を載せ、さて蓋を開けようとした、その時。

「大変申し訳ありません、お隣、空いてますでしょうか」

 男の声だった。振り向くと、交通課の青い制服を着たいわゆる「白バイ隊員」が立っている。

「空いておらぬこともない。今日は麿の気分が良いのでな、隣りに座っても良いでおじゃるよ」
「おお、ありがたき、ありがたき幸せ。失礼いたす失礼いたす」

 妙な言葉遣いとは裏腹に、男はごく当たり前のように腰掛ける。手には立花と色違いのトートバッグ。同じように膝の上に載せ、同じように水筒を取り出して横に置いた。

「今日のおかずはなんじゃらほい」
「鶏もも肉の照り焼きでおじゃる!」
「ほう、てれ焼きとな」
「てる焼きでおじゃる」
「てろ焼き、美味じゃのう」

 二人揃って妙な喋り方。二人の弁当箱の中身もお揃い。二人同時に手を合わせ「いただきます」と高らかに宣言、昼食を食べ始める。

「うん、うまいうまい」
「タレ、多めにかけといたからね」
「やった。ご飯に染みてるのがいいんだよね」
「分かるー。理解《わか》らざるを得ないわー」

 大きい弁当箱の中身を猛烈な勢いで食べる隣の男は、名を和久野誠一郎(わくのせいいちろう)という。熊谷警察署交通課に勤務。大仰なわけではないが、見る人が見れば彼の筋肉質な身体が長袖の制服の上からでも分かるだろう。年齢は立花と同じで、うまそうに弁当を頬張る顔に険しさはなく、爽やかな短髪好青年といったところか。

 この二人は来年の四月に挙式予定だ。それに伴い、立花は寿退職する。既に同棲していて、弁当はもちろん立花のお手製だ。

 その立花自身は、弁当をつつく手が止まりがちだった。和久野は弁当を掻き込む手を止めて、立花の顔を覗き込んだ。

「どうかした、彩ちゃん」
「ん、ちょっとね、腹立つこと思い出してしまったの」
「こないだ言ってた奴?」
「うん」

 箸でつまんだブロッコリーの辛子醤油和えを口の中に放り込み、親の仇の如く咀嚼して立花は語り始める。

「今日もどこか行ってんだよ、あの野郎」
「公安の坂田、だっけ」
「うん。まあここに居ても腹立つだけだから、居ない方がマシなんだけどさあ」

 心底忌々しそうに語る立花。これを皮切りに、次から次へと不満が飛び出してきた。

「第一さ、あの人、なんでこんな熊谷くんだりまで出向してきてんの。理由全然分かんないんだよね。つか、何してるのかもよく分かんない。二言目には『機密だ』『機密だ』って、他に何か言うことないのかってえの」
「うんうん、誠一郎もそう思う」
「あとさあ、何かってえとストップかけて来るんだよ? 四月の旧道沿いの事故だってそう、その直後の立体交差もそう、全部『手出しするな』ってさあ、何よそれ。『これは我々の管轄だ』って、何それ!」
「うんうん、せいいちろうもそう思う」
「現場から硝煙反応出てんのよ? 被害者の身元は不明だわ車両の出処は怪しいわ、突っ込みどころしかないってえの!」
「うんうん、せいいちろうもそうおもう」
「それにあの取り巻き! 何アレ? 宗教? 新手の宗教なの? もうゾロゾロゾロゾロ金魚の糞みたいにいつまでもくっついて鬱陶しいわ! 女子中学生のグループか!」
「うんうん、せーいちろーもそーおもう」
「聞いてる?」
「拝聴しております」

 わざわざ弁当を食べる手を止めて宣言。立花も立花で、特に不平不満も言わず納得する。和久野はそんな立花の顔色を窺ってから口を開いた。

「こっちにも口出してくるよ、坂田って人」
「ええ、何それ」
「ケチの付け始めはやっぱあれだな、旧道沿い」

 先程、立花も不満を述べていた事故だ。報道管制まで敷かれ、一切メディアには露出しなかった。

「あの車両、見た?」
「近くでは見てない。見させてもらえなかった」
「フロントガラスに銃痕あったよ、あれ。しかも複数」
「やっぱり……」
「立体交差の被害車両も同じ。でも、これ以上は調べるなって、坂田って人が」

 親の仇の如く咀嚼するのは和久野も同じで、話しているうちに余計腹が立ってきたのか、より饒舌になってゆく。

「怪しい出処の車両は全部不問、現場付近にあったチェイスの痕も不問、もー片っ端から不問不問だよ。おっかしいよあの人。ってかさ、なんであの人、こっちにまで口出しすんのさ? 俺らのお仕事邪魔したいの?」

 喋りながら照り焼きのタレを吸った米粒を丁寧に集め、一つ残らず食べ終えると手を合わせた。

「ごちそうさまでした」
「はいよ」

 水筒の茶を飲み干して、和久野は溜息をこぼす。大きな背中を小さく丸めて、「ねえ」と立花に呼びかける。

「ん?」
「ここ最近、色々おかしいよな。何か、起こってんのかな」

 問う和久野も、聞く立花も、もう「同棲している恋人同士」の顔ではない。冷徹に事実を見透さんとする警察官の顔だ。

「何かが起こっているのは確か。私達が、そこに触れられないだけで」

 鋭い視線には少なからず怒りも混ざっている。

「……退職するまでには、尻尾を掴んでみせる」
「置き土産にするの?」
「そういうこと」
「でも、気を付けろよ。拳銃沙汰になってるんだから」

 和久野の声色が変わって、立花は小さく頷いた。

「まだ結婚式のドレスだって決めてないんだから。大怪我して入院とかヤダよ」
「そうだね。……そういえばさ、仲人問題はどうなったのかな」
「それね、うちの課長対そっちの課長に、署長が参戦しようとしてる」
「じゃ、決着付くね。目上が出てきちゃどうしようもないでしょ」
「いーや、うちの課長、全く退く気ないよ」
「つよいなあー! 交通課、署長と戦うんだ?」
「断固退かぬって宣言してた」
「つよい」

 笑っては見せたが、心の靄は晴れない。和久野の気遣いにうまく応えられない自分が悔しいが、かと言ってそれを隠すのも和久野に対して失礼だと立花は思う。
 故に、立花は言葉を紡ぐ。心をよぎったことを、素直に。

「……あれも、解決しておきたかったな」
「七年前の?」
「うん」

 半ば諦め混じりの肯定。空になった弁当箱を片付けながら、溢れるように。

「あの子、どうしてんのかな」
「生き残った子か」
「うん。もう大人になってるよね、七年も経ったんだし。二十……二十二か、二十三、生きてれば、だけど」
「生きてるさ、きっと」
「だよね、元気だよね、きっと」

 和久野の手を思わず握り締めると、相手も握り返してきた。その反応に、むしろあの時の少年を思い出してしまうのだ。
 熊谷市一家殺人事件の生き残り、網屋希を。

 どこも見ていない瞳と、自らは何も言わぬ口と、握り返さぬ手。
 まるで引き止めるかのように強く掴まれた肩、それに気付かぬ虚ろな心。

 ああ、この子は現実を拒絶しているのだと、当時の立花は感じた。何もできず、ただ語りかけるしか術のなかった彼女は今、立派な刑事になった。あの時の無念を穴埋めするかのように。

「何かが、今ここで起こっているのなら」

 行方不明になった彼を追うこともできず時を過ごしてしまった彼女は、くすぶり続ける後悔という名の熾火にこう、誓うのだ。

「やれるだけのことは、やらなくちゃ」

 和久野の手も、自身の手も、暖かい。この熱が、冷めぬうちに。


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恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。