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 午前十二時四十六分。公園敷地内、休憩スペース。

 古い電車の車両を模した小屋。東屋と言うには壁があり、コンクリート造りのしっかりしたものである。付近に照明はない。故に、中はひどく暗い。
 中には男が二人。公園の中央を見つめている。

「始まったか」
「ああ」

 そちらを見やったままの会話。監視する必要がある、というより、まるで映画か何かのような近接格闘戦に釘付けであるというのが正しいだろう。互いに避ける、躱す。途切れない。ここまでくるといっそ演舞のようでもある。

 片方が無線を手にした。

「こちら一班、開始を確認。そちらからは見えるか……おい、二班、どうした」

 何も返っては来ない。二人は顔を見合わせた。果たしてそれはどれくらいぶりの視線の交錯だったろうか。

「仕方ない、行ってくる」
「頼む」

 双方ともに溜息混じり。まるで映画の鑑賞を阻害された観客のように。


 午前十二時四十九分。公園中央。

 唐突に悟る。砂場へと誘導されている。すぐさま意図を読み取り、目澤は反対方向へと身を翻した。

「バレたか」

 悪びれもせず武居は呟いてから距離を取る。そちらに移動したらしたで、目澤だってきっと目潰しに砂を使うだろう。だが同じように食らう可能性があるのだからそれは避けたい。余計な要素は排除したい。
 集中しなければなるまい、と、思う。そう感じる。雑念は全て取り払い、一挙手一投足に全てを。次の瞬間の積み重ねを。薄ぼんやりと戦ってどうこうできる相手とは思えない。予測し、対策を練り、次の手を……

 来る。まるでスローモーションのようにそれを認識した。非常に素直な真正面からの蹴りだ。ただし、凄まじく早い。認識から己の体が反応して回避なり防御なりするよりも先に、それは到達する。そこだけがはっきりと理解できた。

 胸部にもろに食らう。来る、という意識があったからまだマシではある。が、それでも馬鹿のようにまともに食らってしまったのだ。たたらを踏み、呼吸が詰まる。武居の表情が視界に潜り込んでくる。やった、入った、と、その僅かに浮かぶ笑顔が語っていた。そして勿論、その一発だけで終わるはずがないことも。

 間髪入れず繰り出されるワンツー、顔面に向けられた左も胴体を狙った右もさばいたが、更に続く連撃はますます速度を上げてゆく。もう一度左、なんとか防ぐ、右、こちらは速度が読めずに腹に食らう。腰が砕け体勢が崩れたところをすかさず狙う武居は小さく、だが素早く飛ぶ。目澤はまたもや悟る。ああ、肘が来る。高い位置から振り下ろすように。

 そして武居の肘は右横から振り下ろされ、目澤の側頭部に命中した。視界がぶれる。さらに膝の裏側から刈るような蹴り。強制的にしゃがみ込む形になった。そうなったらどうする? もしも、自分が武居の立場なら何をする? 答えは簡単だ。膝裏を刈り込んだ足を地面に付けることなく、少し位置を高くして叩きつければ良い。相手の頭は勝手に下がってくるのだから。

 痛みと衝撃が耳の上辺りを襲う。体が横に倒れるよりも先に、武居の左足がコンパクトに動いて胸郭を蹴り飛ばし、目澤は背後へと吹き飛ばされた。

 くそ、と頭の中で毒づいた。己に対してだ。鈍重なのだ。何が? 意識が。手も足も動かそうと思えばできるはずだ。なのにできないのは何故だ? 何かが意識に引っかかっているからだ。ぼんやりと霞がかかったように、認識と思考と行動とが見渡せない。噛み合わない。集中するべきだ、もっと……

 いや、違う。まるで別人のように己が心の中で叫んだ。ただ、違う、とだけ。赤信号の色を視界の端に見つけたように止まった。ぐちゃぐちゃと悩む意識が。
 違う、違う違う違う。間違っている。そうじゃない。

「……そうだ」

 声が漏れ出た。尻餅を着いたような姿勢から立ち上がる。武居が駆けてくるのが見える。

「そうじゃないんだ」

 真っ直ぐこちらに伸ばされた足が、しかし僅かに横に逸れ、動く。

「集中なんぞ」

 正面はフェイントだ。右から叩き付けられる蹴りを肘で防ぐ。そのまま素早く足が持ち上がり、空いてしまった頭部へと迫るがこれも肘で防いだ。足を下ろす反動を使って拳が飛んでくるが避ける。

「しなくて、いいんだ」

 最低限の動きで避け、その拳を脇に挟み込むように捕らえた。固定した武居の腕、肘の内側から空いた方の腕を引っ掛ける。同時に身を翻す。相手の体を腰の上に乗せる。そしてそのまま、背負投の要領で地面へと投げ飛ばした。復帰など待ってやる義理はない。間髪入れずに脇腹を蹴り飛ばす。脾臓の辺りだ。さらに踏み付けを狙ったがこれは回避された。

 一応、という名目で幼い頃から出場していた空手の大会は、いつもぎこちなさとためらいが混ざって優勝はできなかった。特にそれに対する執着もなかったので気にも留めていなかったが、今になってようやく分かった。四十にしてなんとやらだ。
 集中しようとする、それ自体が己にとっての雑念であったのだ。息を吸って吐くのと同じくらいにまで叩き込まれた諸々を、いちいち意識して行おうとするからぎこちなくなってしまうのだ。こういうとき、変に動きや技術面を考えようとするからいけない。深く息を吸い、吐き、止めるときくらいでいいのだ意識なんぞ。知るか。細かいことなんぞ知るか。雑念まみれで結構。今までの実戦時はどうだった? いちいち動きを考えていたか? いいや、そんなことを考える余裕は無かった。だからこそ淀みなく動くことができたのだ。
 ああ、今更。こんな歳になって気付くなんて。しかもこんな時に。こんな、時に!

「早く帰らせてくれ!」
「え、何? え?」

 首に向かって横から手刀。腕を上げて防ぐ武居。しかしそのまま手刀を振り抜いた。目澤の力に押され、武井は防御体勢のままよろめいた。

「どうしてこんな時に!」

 蹴りを放つが足ごと抱えられてしまう。これまたお構い無しで、今度は足を外側に引いた。咄嗟に離すことができなかった武居が再びよろめく。
 目澤の方が身長も高く、僅かではあるがパワーも上回る。ならばそれを活かす。これは試合ではない。稽古でもない。仲間同士のじゃれ合いでもない。不公平などという概念はない。倒すか倒されるか、それ以外には何も存在しないのだ。

「せめて、土曜日以外にしてくれたら良かったのに!」

 足が地面につく前に、武居は手を離した。人間は咄嗟に手を離すというのが、実は苦手だ。掴んだまま、踏んだまま、行動を見送ってしまうのは何も老年層に限った話ではない。だが武居は離した。危機を察知し、瞬間的に回避行動を実行できるというのは優秀な証拠だ。目澤は相手を称賛した。頭の中でだが。
 そのまま足を掴んでいたら、今頃武居は地面に頭を叩きつけられていたはずだ。

「大体なんだ、警察関係とかなんとか、市村も何考えてるんだ」

 間合いは離れていない。近距離での撃ち合い、互いに防ぎ合うがやはり武居の方に速さがある。そんなことはもう分かっている。それに付き合ってやる義理はない。
 頭を振って肘を避ける。同時に踏み込み、その肘と肩を掴む。肩を掴んだ腕は上げて、武居の顎の下で固定する。目が合った。やばい、と彼の瞳が語っていた。その通りだ、もう遅い。足首の辺りを払う。武居の体が崩れ落ちる。その自由落下の勢いを使い、首を固定したまま、目澤は武居の後頭部を地面に思い切り叩きつけたのだ。
 しかし、完全には入らなかったという感触がある。僅かではあるが武居は身をひねっていた。頭部へのダメージは期待したほど通ってはいないだろう。それに、これがとどめになるとは微塵も思っていない。すかさず腹部に一発入れた。相手が膝を曲げる気配がしたので、もう一発は入れず距離を取る。転がったまま放った武居の蹴りは空を切った。

「なんだよ、やっとエンジンかかってきたじゃねえか、アンタ」

 武居が喋っている間も一切待たない。距離を詰める。立ち上がりかけた武居の顔面に向けて蹴り。足首を掴まれる。そのまま足首の関節をひねられそうになるが、それに逆らわず体ごと回転して負荷を逃す。回転の勢いで拘束を逃れ、地面に手をついた低い姿勢のまま数回蹴りを入れた。入ったのは二発。十分だ。
 距離を取って立ち上がるのが両者同時。

 かすかに、だが。楽しさを見出してしまっている。かすかにだが。目澤はそれを否定することを止めた。


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恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。