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皮膚におおわれ、骨格に付着する

「お肉です」

 突然、背後から声が聞こえた。誰も居ない夜の帰り道、唐突に耳へ飛び込んできた言葉だけでも十分に恐怖の対象であるのに、自分は迂闊にも振り向いてしまった。

「お肉です」

 ぽつり、道端に誰かが立っている。切れかけた街頭のチカチカする明かりに照らされて、黒い影が伸びている。顔は、見えない。何かを被っているからだ。何だろう、と目を凝らしてみると、それは生肉のように見えた。肉そのものを仮面のように被っている? いや、まさか。
 恐怖よりも興味が勝った。疑問が次々湧いてきて止まらない。なぜ肉? 生肉? 仮面?

「お肉です」

 あ、そうか。名乗っているのだ。きれいにまっすぐ立って、律儀にこちらへ頭を下げている。

「お肉、です」

 訳も分からず自分も頭を垂れた。顔を上げたときには、もう誰も居なかった。


 次に目撃したのは、一ヶ月くらい経った後だ。

 地元の小さな駅ビルの一階で、焼き鳥を買い込んだ後に肉屋でモモ肉一枚揚げなるものを発見してしまい、さてこっちも買おうかどうしようかとショウケースを睨んで悩んでいたときだった。

「お肉です」

 真隣に居た。肉の仮面を付けた人物だ。思わず後ずさった。肉屋の店員は居ない。古式ゆかしいグラム単位で切り売りしてくれる肉屋であるから、店員は常駐していそうなものなのだが。唐揚げだってグラム売りだし酢豚もグラム売り、秤も置いてある。どうして店員が今、居ない。

「お肉です」

 あまり広くはない食品売り場、斜向かいの焼き鳥屋の前にも横の弁当売り場にも客や店員は居る。だが、誰もこちらに気付いていない。
 真隣だ。近い。時間帯は夜だが店内は煌々と明るい。怖い。なんで? どうして?

「お肉です」

 ……あ、そうか。そりゃそうだよ、お肉だろうよ。こいつ、ショウケースの中身のこと言ってるんだ。
 と悟った瞬間、恐怖心よりも突っ込みたい衝動が勝ってしまった。空気が抜けるような笑いが口から漏れた。その時だ。

「いらっしゃいませー」

 奥の厨房に居た店員、多分アルバイトかなにかだろう若い男が顔を出した。そちらに意識が引っ張られ、アッハイなんて半端な返事をしてから慌てて横を見ると、もうそいつは居なかった。


 その次は、お盆休みの時期だった。帰省するでもなくぶらりと旅に出かけた。意味もなく南の方へ。まあ、そんな大層なものでもない、息抜きのような。

 予約した旅館までゆっくりと歩いている最中に、道端に打ち捨てられた車両を見つけた。車両、と言ってもフレーム部分だけがかろうじて残っている程度であり、中には一面に花が咲いていた。勝手に咲いたのか、それとも誰かが植えたのか。いや、これは流石に自然とは言い難い。アートなのか自治会の景観努力なのかは分からないが、これだけこんもりと花が咲いているのは誰かが手を加えたからであろう。

「お肉です」

 聞き覚えのある、少しくぐもった声。車両の横にそれは居た。お肉仮面だ、と頭の中で呟いた。勝手に名付けたのだ。今度は真っ昼間か。やはり周囲には人の気配がない。
 幻だろうか、と目をこすった。夢だろうか、と頬を己で叩いた。どちらでもなかった。そんな自分の様子を不思議そうに眺めているのが、首を傾げる動作で分かった。

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 傾げた首を元に戻して、言う。

「お肉です」

 ここに肉などない。自己紹介なら最初にされた。お肉?

「お肉です」

 ちらりと花を見て、こちらに顔を向け直して、言う。少し悩んだが、すぐに分かった。この花が肉なのだ。肉、と言うより中身とでも言うべきか。もうこの車はすっかり朽ちて車ではなく、花は車内に活けられて自然ではなく、しかしこれらはもうこれであるのだ。だから、この花は、これの、肉。中身。そのもの。存在。としての、肉。

 とここまで考えが至ったとき、道の向こうから車が走ってきた。あ、とそちらに意識が向いて、道の端に避け、振り向けばやはり、お肉仮面の姿はなかった。


 最後は、冬だった。

 もう無理だと、ただそれだけを思っていた。無理だ。何もできない。できない。どうしろというのか。駄目だ。ただ自分の部屋でうずくまって、暖房も付けずにひとりで、膝を抱えて、訳も分からず流れる涙を袖や膝に吸い込ませて、泣き声を上げてもいいのに、声を殺していた。どんどん涙が出てくる。壊れた蛇口みたいに。嗚咽を堪えてどうにか涙を止めようと思ったが、意志に反し涙はいくらでも出てくる、流れてくる。どうして? どうすればいい? なんで? 何も分からない。頭が真っ白になって、ただひたすらに絶望しかない。どうしよう?

「お肉です」

 背後から。知っている声。本当にすぐ後ろ。反射のように顔を上げた。が、振り向くことができなかった。なんでだろう、最初はあんなに簡単に振り向くことができたのに。

「お肉です」

 仮面越しのくぐもった声ではなかった。音に明瞭さがあった。距離が縮まるのが分かる。だが避けることはしなかった。逃げもしなかった。そのままに任せた。

「お肉、です」

 視界が一瞬、暗くなった。すぐに、仮面を被せられたのだと分かった。簡素な穴から外の世界が見えた。頭からすっぽりと覆われて、自分はすっかりそれになった。あの花のように。あのショウケースの中身のように。名乗ったときのように。

「お肉です」
「はい」

 答えた。こうして自分は、お肉仮面に成った。




恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。