02-2
希が高校一年生の時だ。
その日は、兄の合格祝いで外食することになっていた。父はその日のために有給を取っていて、自分も六時までには帰るように言われていた。
兄の要(かなめ)は前から行きたいと言っていた大学に、推薦で合格した。肩の荷が降りたのか、兄も親もヘラヘラと笑っていたのを覚えている。
弟の環(たまき)と、外食するなら焼肉がいいと合格した本人でも無いのに言い張った。あっさりそれは認められ、小躍りしたものだ。
会社員の父と、パートに出ている母。高校三年の兄、一年の自分、中学一年の弟。庭ばかりが広い一戸建てに住んでいて、昔から友人知人が遊びに来たものだった。
相田もその一人で、小学校の頃からつるんでは勉強もせず遊んでいた。通学班がいつも一緒で、宿題もしないうちにまずゲームをしにやってくる。そんな仲だった。
陸上部の練習を早くに切り上げて、いつもより一本早い電車に乗ろうと思っていたのに、そんな日に限って電車が止まっていた。停電だとかなんだとか、そんな理由だったはずだ。
ぼんやり待っていても埒が明かない。車で迎えに来てもらえたらいいなと、下心丸出しで自宅に電話を掛けた。だが、誰も出ない。
次に、父の携帯に掛けた。次いで母、兄、弟。誰も出ない。
もしかしたら先に出てしまったのだろうか。直接店に来いとか、そんな感じになっているのだろうか。
何度掛けても、誰も反応しない。何となく嫌な感じがした。
駅員の案内に従ってバスに乗り、ターミナル駅にまで何とか辿り着く。そこからいつもの私鉄に乗り換えて、ほぼ無人の小さな最寄り駅で降りる。
辺りはすっかり暗くなっていて、人気も無い。着込んだウインドブレーカーの上下が擦れる乾いた音と、早足で歩く度に揺れるバッグの中身。
訳も分からず、不安に駆られた。無論、根拠など無い。気が付けば小走りに駆けていた。だが程無く、遠くに見える自宅から明かりが洩れているのを発見する。
「なんだ……いるじゃん」
わざわざ声に出したのは、言葉にすることで安心したかったからだ。電話に出なかった理由をどう問い質してやろうかと思ったが、それよりも外食の方が先だ。
自宅に着くとまず、父の車があることを確認した。やけに広い庭を斜めに突っ切って玄関に向かう。
いつも通りに鍵を差し込んで回すが、ドアノブをひねると、がつんと硬い音がした。
「何で鍵開いてんだよー閉めとけよー……ったく。無用心だな」
もう一度鍵を差し込んで、回す。今度こそ玄関の鍵が開く。
「ただいま」
返事が無い。と言うより、人の気配が無い。あまりにも静かだった。
「ただいまー……」
妙な臭いがする。自室に荷物を置こうかと思ったが、思い直して居間のドアを開けた。
「ただい……」
赤い。居間は赤く染まっていた。白っぽい壁も、花柄のカーテンも、赤黒い飛沫で見たことも無い模様になっていた。
むせ返る様な臭い。真っ赤に染まった、父と、母と、兄と、弟。
父の背中は斜めに切り裂かれ、出かける時はそればかり着ているデニムのシャツが血で重く湿っていた。
母は仰向けに倒れていた。腹部には何度も刃物で刺された痕があった。虚ろな瞳が虚空を見つめていた。
兄は床にうずくまるように崩れ落ちていた。その体の下に、弟の体もあった。二人とも体を切り裂かれ、全身が赤黒く染まっていた。
全員の手足はガムテープで拘束されていた。棚や引き出しの中身は全て荒らされ、散乱していた。
理解できなかった。五感の全てが、この状況を拒否していた。まるで分からない。何が起きているのか。どうなっているのか。
だが、拒否を続ける五感のうち視覚だけは、僅かな動きを捉えた。父の指が、ぴくりと動いたのだ。
「父さん!」
荷物を廊下にかなぐり捨て、血塗れの父に駆け寄る。ソファーに不自然な体勢で寄りかかっていた父を思わず抱えた。手に、どろりと濡れる感触。
「……の、ぞ、み」
父が名を呼ぶ。一音ごとに、口から血が流れ落ちる。
「父さん……父さん!」
ただ父を呼ぶことしか出来ない。目が合った。
「にげ、ろ」
血が止まらない。口から溢れ出す血が父の言葉を濁す。
「に、逃げるって……」
「に、げ」
そこまでだった。父はそれ以上、何も言わず、動かなくなった。
居間には、生きている人間が一人と、四つの死体が残された。
恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。