見出し画像

26-12

「先生、塩野先生、どうしよう、警察の人が! なんかバリケード! なんか!」

 熊谷市の中心部、該当のデパート前にまで辿り着いた相田は情けない悲鳴を上げた。いくらなんでもそのまま車で規制線に突っ込むほどの度胸はない。
 国道から立体駐車場へと入ってゆく細い道は、当然のように封鎖されていた。パトカーも警察官もひしめいている。

「まーっかせて! とりあえず近くまで行ってくれる?」
「はいよ!」
「眼の前まで行っちゃっていいから」

 内心では緊張で強張り、真冬なのに嫌な汗で背中を濡らしながら、それでも相田は何事もないかのようにそっと車を黄色い封鎖テープの前まで進める。勿論、警察官が駆け寄ってくるのだが。

「はいちょっと窓開けるねー。こっちこっち、もうちょっとこっち寄って」

 助手席の窓へと少し身を屈めた警官に、塩野も自ら身を寄せて、耳元で何かを囁いた。何を言っているのかは相田には分からなかったが、その声が小さくともよく通るのが感じられる。そう、やけにはっきりと声だけは聞こえるのだ。
 塩野の言葉を直に食らった警官は、慌てて封鎖線を解き始めた。他の警官達にも当たり前のように指示を出しながら。なんなら塩野に「よろしくお願いします」と頭など下げている。

「はい相田君、ゴーゴーゴー」

 何が起こったのか全く分からないが、とにかく今は時間がない。網屋に告げた時間が過ぎてしまう。更に狭くなる道を抜け、寺と教会の間も抜け、右折するとそこには立体駐車場の入り口。たむろするパトカーと警官多数。

「めちゃくちゃいる! あ……なんか悶着は落ち着いちゃった感じ?」
「うわ、遅かったですかね、やっちまいましたか俺」
「いやいやいや、全然だいじょぶ。捕まってんの一人だけみたいだし。ってか完璧なタイミングだと思う。今ここに出てきたみたい。ホント完璧だよこれ奇跡じゃない? おーし、んじゃ行ってきます」
「この辺で待ってればいいですか」
「うん。網屋君もこっちに気付いてくれるといいんだけど」


 手錠を掛けられた坂田は押し黙ったままであった。観念してくれたのならありがたい。が、そうではないのだろうという確信にも似た皮膚感覚が塚越にはある。嫌な感覚だ。だが、それはいつものことだった。内部の監査役のようなことを任せられることが多い故に。

「塚ちゃん」

 少し低い位置から自分を呼ぶ声。ストレッチャーに乗せられた西倉が、心配そうにこちらを見ていた。

「大丈夫か?」
「ニッシーこそ」
「俺はね、頑丈だから。なんかさ、大変そうな顔してたから」
「あー、うん、いつもこんな感じよ。大丈夫」
「ハッハ、マジかよ。いつもこれはキツイな」

 時折、痛みに顔を歪める西倉。

「ありがとうね。ニッシーのおかげですげえ助かった」
「いえいえ」
「ニッシー、足……」
「あー、まあ、うん、痛えけど。でも足がくっついてるから問題ねえっしょ」

 横付けしていた救急車の準備が整ったのか、中から救急隊員が出てきてこちらに駆けてくる。
 なぜか反対側からは見慣れぬ車が一台やってきて、それがここから逃げた例の車両だと気付くまで少しの間。意識があちこちに引きずられて、塚越の眉根が寄った。
 車に気付いたのは西倉も同じで、「なんだろ」などと呟いていたが、救急隊員の呼びかけに応答するため視線が逸れる。

 黒い車から出てきたのは、全く見覚えのない眼鏡の男性。車自体は高い塀に横付けし、それ以上動く気はないらしい。警官が二人、男性に駆け寄っていった。もしかして、自分とは違うルートの関係者であったのだろうか。可能性は高い。
 そちらから視線を切って、運ばれてゆく西倉を見送ろうと顔の向きを変え、気付く。

「どこを」

 捕縛している坂田の視線は、黒い車でもそこから出てきた人物でもなく、ましてや西倉と救急車でもなく、立体駐車場の出入り口から狭い道を挟んで真向かいの、背の高い塀へと向かっている。そちらには古い寺がある。高い塀、さらにその上から覗く木々。宵闇の中で暗くざわめく。

「見て」

 塀の上だ。期待に満ちたような視線だ。坂田は僅かに微笑んでいた。

「……頼む」

 奇妙な一言。

 音もなく、塀の上に黒い影が現れた。黒いコートが翼のようにはためいて、影は地面へと降り立ち、小さく「分かった」と返した。

 塩野も、西倉も、その場にいたほとんどの人間は事が起こるまでそれに気付くことができなかった。影に潜み様子を窺っていた網屋でさえ。

 鈍い銃声が一発。坂田の眉間に穿たれる痕。その一発は過たず脳幹を破壊し、速やかに彼を殺した。

 時が止まったかのように静寂が訪れ、しかしそれは刹那の時であり、現場の緊張は爆発する。姿を消す黒い影。怒号。悪寒。倒れた死体。血。


 塩野はまず振り向いて相田がその光景を直視していなかったか確認し、もう一つの黒い影が風のように駆けてゆくのを視界の端の端でかろうじて捉え、それから深く溜息をついた。

「待っていたのか、僕が来るのを」

 苦々しい顔。塩野がいればこの場の収束は確実だ。彼ならば強制的に、証拠の有無すら問わず決着を付けられる。下手人はそこまで見越していたのだ。後始末を押し付けられた、とも取れる。

「ああ、もう……今回だけは乗ってあげる。誰だか知らないけれど。仕方ないからね」

 もう一度、短い溜息をついて、頭を振って、塩野は意識を切り替えた。そして、呪文を唱えた。


 目次 

恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。