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 八月になって大学は夏季休業へと突入した。
 大学生の夏休みは長い。その長い夏季休業のうちにレースが二回。学生レースの話を聞いたのは、八月半ばのレース中であった。


 照りつける太陽。焼けるアスファルト。立ち込める、金属とオイルとタイヤの臭い。
 レースを終えて、ひっつめた髪を解くと椿は頭を思い切り振り回す。今日は、同チームの先輩レーサーである瀬畑三郎(せばたさぶろう)に付いて行くのが精一杯であった。
 あのキレに付いてゆかねばならない、引いてはそれと同等にまでならねばならないのだ。果たしてそうなるのはいつになるのか。見えてくるのは己の至らなさばかりであり、焦りばかりであった。

「今日はどうした」

 その瀬畑に声を掛けられて、椿は硬い表情を返す。

「らしくなかったな」
「うん、自分でもそう思う」

 分かっているのなら何も言うまい。瀬畑はただ背中を叩いて、ピットへと引っ込んでいった。
 追いつけそうな感触はある。だが、それが具体的にどのようなものなのかまるで分からない。ただの勘違いかもしれない。来年度にはJSB1000に移行する瀬畑に「追い付く」など、とんでもない驕りなのかもしれない。
 だが、そんな考えに拘泥している己自身が最も腹立たしいのだ。

「椿ー、どうしたどうしたァ! しょっぱい顔してんじゃないよー!」

 背後から何者かに抱きつかれ、椿はようやく笑顔を取り戻す。

「たまちゃん、そういう時はそっとしておくのが女のたしなみって昨日言ってたっしょ」
「昨日なんて昔のことは忘れたッ」

 チーム所属レースクイーンの一人、堀口珠姫(ほりぐちたまき)がやけに低い声を出して言い切る。本人は渋い男性の声を出しているつもりなのだろう。
 メリハリのあるナイスボディを惜しげも無く晒している彼女だが、レースクイーンになった理由が「バイクレースに触れる最も手っ取り早い手段」なのだから世の中はよく分からない。

「元気出せー。眉間にシワ寄せてると、それが固定されちゃうぞ」

 正面に回って眉間の辺りをごしごしと擦る珠姫。へへ、と気の抜けた笑い方で返す椿。肩の力が抜けたことを確認すると、ようやく珠姫は近接戦闘を中止してくれた。

「そういえばさ、椿の大学って熊谷産業大学でいいんだっけ」
「そうだよ。どした、うちに編入するか」

 珠姫も大学生である。確か、今年で卒業であったはずだ。

「しないよー。そうじゃなくて、そっちの大学の自動車部、今年から全日本に出るんだねって思って」
「……はて、自動車部、とな」
「椿、さすが椿だ。やっぱりチェックなんてしてなかったか」

 興味が無い、と言うより、そこまで意識が回らないと表現した方が良いだろう。学業とレースの両立、さらには自宅の手伝いと、それだけで日々の生活が過ぎ去ってゆくのだから仕方無い。

「全日本学生ジムカーナ選手権大会、ね。私の弟が出てるのですぞ。来週ですぞ」
「弟ってアレか、双子の」
「うん。克騎(かつき)ね。今年で最後だから、私も応援にゆくのだ」
「その格好で?」
「それでもいいけど、多分、かっちゃんに物凄く怒られる」

 本人的には問題無し、というところが問題なのだが、ここにはそれを突っ込む人間はいない。

「鈴鹿でやるから、ついでにお伊勢参りしようかと思って」
「え、いいな、お伊勢参り行きたい」
「そこ? 反応するとこ、そこか?」
「幼馴染が今年受験なんだよー。合格祈願のお守りとか買いたいんだよー。いっつも鈴鹿行っても観光する暇なんて無いしさ」

 この場にいる全員がそうだろう。何度も行っているはずなのに、主要観光地に行ったことが無い。なぜならば、暇も余剰体力も余裕もないからだ。

「ついでに母校の応援も、してやらんこともない」
「ついでかい。でも、なんだっけ、熊谷産業は有名な人が出るらしいよ? かっちゃんが言ってた」
「有名……? 誰だろ」
「元レーサーだって。引退しちゃったらしいけど」
「元レーサー、元レーサー……あれ、えっと、思い出しそうなんだけど……聞き覚えがあるような」
「相田雅之だな!」

 突然話に割って入る男の声。振り向くと、佐伯がそこにいた。

「相田雅之、俺らと同じ十九歳、元F3ドライバー、引退は今から二年前、付いたアダ名は『疾風』、埼玉県出身、現在は熊谷産業大学機械工学科!」

 ここまで一気に言ってのけると、

「とりあえず、話は聞かせてもらった!」

 と、ふすまか何かを開ける真似をした。

「良く知ってるな佐伯」
「昔、市報の裏面にインタビュー載ってた。同い年だったから覚えてた。俺らと学部も同じよ」
「じゃあ、顔見た方が分かるな」
「んだんだ。という事で、俺らもお伊勢さん参り行こうぜ! 珠姫に引かれてお伊勢さん参り!」
「私は牛か!」
「牛じゃん?」

 椿は容赦なく、珠姫の豊満な胸を指さして繰り返す。

「牛じゃん?」
「……お前はオッサンか」


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恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。