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 現場である医院のすぐ隣に、小さな駅がある。その駅の駐車場に網屋の車は停めてあった。現場に到着後、網屋達を降ろすとすぐにこちらへ移動していたのだ。駐車場と言っても、ただ砂利が敷いてあるだけの更地である。街灯も小さいものがぽつりと一つあるだけで、薄暗く視認性は悪い。
 車内には相田と藤田の二名。つい先程まで相田は外に出て周辺の様子を窺っていた。一台の車が医院の駐車場に吸い込まれるのを確認し、網屋に連絡した後、駅の自動販売機でペットボトルの茶を買って戻ってきたところだ。

「どぞ、お茶で大丈夫ですか」
「あ、ハイ、ありがとうございます」

 ペットボトルを受け取った藤田であったが、ボトルを抱えたままうつむいてしまう。相田は自分の茶を半分ほど飲んでから、藤田に語りかけた。

「……大丈夫ですよ」

 顔を上げた藤田の目は、涙のせいで赤く腫れ上がっている。
 ただじっと待つしかできない焦燥感は、相田にも少し分かる。相田自身も同じ立場であるからだ。ただじっと、そこで、息を潜めて待っているだけ。その立場に、彼女よりは多少慣れているというだけだ。

「あの人達、殺しても死なないから。どうせ平気な顔して戻ってきますよ。中川路先生も」
「……ありがと……ございます……」

 最後の方はもう消え入るようにか細く、涙混じりの声であった。今までは緊張感で糸が張り詰めていたから冷静でいられたのであって、それが緩むなり切れるなりしてしまえば、抑えていた感情は堰を切って溢れ出す。食いしばった歯の隙間から漏れる嗚咽。この一日、いや、一晩で経験するには余りにも多く、予想外で、かつ厳しい内容の事件ばかりであった。許容量はとうの昔に超えているのだ。

 相田は待った。泣きたい時、泣くべき時だと分かっていたから。どうしようもない感情が、涙と共に発露する時だと知っていたから。

 しばらく経って、堪え切れないほどの嗚咽がおさまってきた。涙に濡れた頬を強引に拭い、深呼吸をして、藤田は泣くという行為を無理矢理に切り上げる。何度か自身の頬を勢い良く叩き、かなり痛そうな音に相田が身を竦めた。

「すみません、取り乱しちゃって」
「大丈夫っすよ」

 本日三度目の「大丈夫」に笑顔で応えたが、それでも藤田は少しうつむいてしまう。ぽろりと、言葉が唇からこぼれ落ちる。

「バチが当たったのかなって、思ったんです」
「バチ?」

 力なく頷いて、藤田は言葉を紡いだ。

「欲が出ちゃったから……利用しあうだけの仲だって、それ以上にはならないって、最初に約束したのに。それなのに私、我慢できなくなったんです。中川路さんがあんまりにも優しくて、それで、勘違いして。それ以上になりたいって。優しさ以外も欲しい、他の部分も見せて欲しいって」

 握り続けていたペットボトルは体温で少しぬるくなっている。熱は奪われたのか。熱を与えたのか。互いを押し合う圧だけがそこにある。

「優しいのは、利用するから。分かってたはずなのに……。襲ってきた女の人、きっとあの人も私と同じなんじゃないのかな。欲が、出たんだ。私も下手をすれば、ああなる。きっと……」
「いや、それは無いっすね」

 相田の軽やかな否定に、藤田は驚いて顔を上げた。相田はさも当然だと言わんばかりだ。

「自分のことが分かってないから暴走しちゃうんであって、藤田さんみたいによーく分かってる人はそう簡単に暴走しないですよ。でしょ?」

 茶を口に含んで喉を湿らせると、相田は一気にまくし立てる。

「ホントに暴走しちゃう人だったら、もうとっくの昔に大爆発してますって。それに、中川路先生ってちょいワル気取ってますけど、化けの皮剥がれたらただのイイ人じゃないっすか。かと言って、誰にでものべつ幕無しに優しいわけでもないし。容赦なく選り好みしてますよ。だからまあ、えっと、気にすることないって言うか」

 それこそ身を乗り出して力説していた相田。その体勢に気が付いて、相田は少し体を引っ込める。言葉の勢いもだ。

「……ホント、気にすることないっすよ。虫に刺された程度に考えておけば。あと、中川路先生も、そのー、何つったらいいんだろ、うーん……あれだ、オトシにかかっちゃえばいいんですよ。向こうから惚れさせてやる、くらいの勢いで。俺、恋愛経験ほとんど無いからよく分かんないんですけど」

 へへ、と笑って、自分でオチをつけてしまう。藤田もようやく、普通に笑うことができた。相田が必死になって慰めようとしていたのが分かったからだ。

 当の相田はと言えば、視線を窓の外にずらして何かじっと見つめている。藤田もその視線を追うと、薄暗がりの影から何者かが歩いてくるのを発見できた。
 相田が車から飛び出す。駆けてゆくその先にいたのは網屋達であった。

 目澤に支えられて歩いてきた中川路の顔面が赤くなっている。鞭で打たれたミミズ腫れと、流れた血によって真っ赤になっているのだ。
 思わず藤田も飛び出し、中川路に駆け寄る。縋り付きそうになったが何とかとどまった。

「ああ、無事だったか。心配したんだよ」

 藤田よりも先に、中川路の方が労りの言葉をかける。当たり前のようにそんなことを言う中川路に、藤田は言葉を詰まらせた。

「俺に何かあっても、放っといて逃げろって言っただろう。こんな所にいちゃ駄目だ……」
「バカーッ! 川路ちゃんのバカ! オタンコナス!」

 塩野が拳を振り上げて叫ぶ。実際に一発くらいは叩きつけてやりたかったのだろうが、流石に自重した。

「ゆうきちゃんが頑張って連絡してくれたから、川路ちゃん助かったんだよ? それなのに何言ってんの、このアホたんちん! 間抜け! ボケナス! 警察に通報されてたら握りつぶされて川路ちゃんもどうなってたことやら! それなのにかける言葉がそれですか? イケメンが聞いて呆れるね!」
「そもそもだな、詰めが甘いんだお前は」

 目澤まで追随して文句を言い始める。こちらは体を支えているので、回避しようにもできない。

「庇うのは結構だが、その後のことを考えていなかったろう。お前が気絶したらフォローも何もできないだろうが。まず倒せ、話はそれからだ。最低限の動きは教えただろう? それとも何だ、またうちの道場で一からやり直したいのか」
「……お前らは優しさってもんが無いのか」
「無い!」

 塩野と目澤に網屋まで加わって、三人同時に言い切った。今度は網屋だ。

「自分の立場ってもんをわきまえてもらわんと困ります。狙われてるって自覚をもっとしっかり持ってもらわないと。地下駐車場とかさあ、もう危険がいっぱいじゃないですか。そこに狙ってくださーいと言わんばかりの目立つ車停めてるんですよ? 最初から警戒して下さいよ。周辺にもっと目を向ける! 日頃の行いも色々気を付ける!」
「日頃の行いは、その、無理。痛い痛い痛い!」

 手の甲を思い切りつねったのは目澤である。しかも、誰ひとりとしてフォローしてくれない。慌てて目澤から離れると少しだけよろめいた。代わりに支えてくれたのは藤田だ。

「ああゴメン、大丈夫だから」

 少し目尻が腫れた彼女と目が合って中川路は黙りこんだ。その後に薄く浮かべた笑顔はいつもと違って、少しだけ隙がある。
 彼女の体を引き寄せ、中川路はそうっと傷ついた腕で抱きしめた。

「ありがとう。君のおかげで助かった。……怖い思いをさせてしまったね。ごめんよ」

 つい数時間前までこの腕に抱かれていたはずなのに、まるで違う感触。戸惑いながらも、藤田は胸に顔を埋めた。

「心配したのは、私の方です」
「……確かに、そりゃそうだ。そうだよなあ」

 笑い声も、喋り方も、いつもと少しづつ違う。多分これが、気取らない状態の中川路であるのだ。
 好きになっちゃうのも、仕方ないよね。声には出さず、藤田は小さく小さく呟いた。


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恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。