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 相手のナイフは刃渡り約二十センチ。標準的なボウイナイフといえるだろう。シグルドの持つダンベルの柄の方が長さはある。すなわち相手の方が小回りが利くということだ。重量も当然違う。
 やはりこの男も、速い。得物の差もあって、先程のスレッジハンマーとは比べ物にならない速さだ。奴の斬撃を防ぐたびに金属の細かな欠片が飛ぶ。この刃物にも、毒が塗ってあるのだろうか。そんな懸念を抱いた時だ。

「君、僕達をダシに使ったね?」

 突然の言葉に、戦う両者は思わず振り向いた。既に事切れてしまったハンマーの男、彼の目蓋をそっと閉じた塩野。その塩野が放った言葉だった。
 おかしい、今度は英語に訛りが無い。シグルドはそんな事に気付いたが、塩野の放つ言葉に疑問は押し流されてゆく。

「この人を最初から殺すつもりだったでしょう。いつから狙ってたのかは知らないけど……」

 ごく僅か、一瞬だけ、シグルドに向けられる塩野の視線。その視線だけでシグルドは瞬時に悟る。酷く雄弁な視線だった。「続けて」と、言っていた。
 ナイフを持った手、その手首を狙う。相手も気付き、防御する。呪縛が解けたかのように戦闘を再開する二人であったが、塩野は喋るのを止めなかった。

「僕達の始末をつけようがつけまいが、君は最初からこれを狙っていた。新参者である君が手っ取り早く上に行くには、この方法が一番だからね。ん? 答え合わせ、してほしい?」

 ナイフの男は塩野を気にするまいと努めているように見える。戦闘に集中してしまおうと、そのように努力している。しかし無理な話だった。塩野の声を聞いてしまったからにはもう、後戻りはできない。五感のうちのひとつでも彼に傾けてしまったのなら手遅れなのだ。

「僕ねえ、顔見るだけで『キャンディ』キメてるかどうか分かっちゃうの。特に笑顔ね、笑顔」

 口の端を指で持ち上げて、笑顔のような形にしてみせる塩野。その顔を、視界の端に捉えてしまうナイフの男。シグルドに対して攻撃を続けながらも、塩野の言葉が気になって気になって仕方がない。
 相手をしているシグルドの方は、それらを全て踏まえた上で攻撃をいなしていた。ここは影に徹するべきだ。塩野が求める環境作りの手伝いとして、適度に攻撃を受け続けるべきと判断したのだ。
 多分、ではあるが、塩野が要求しているのは『集中できるようでできない』状況だ。故に、このままで良いのであろう。

「笑顔なんて見せてない、って言いたいよねー? でもねえ、僕見ちゃったんだ。君が笑ってるトコ。このお兄さんが息を引き取った時、がっつり見たでしょ、確認したでしょ、ね? で、死亡を確信した時、笑ってたよぉ君。嬉しそうに、笑ってた」

 塩野の言葉はどこまでも軽やかだ。まるで世間話のように。
 音という情報が半ば強引に脳へと叩き込まれ、言語という形をとって理解に及ぶ。認めたくない事実を、心の奥底の泥を、容赦なく掻き乱して水を濁らせる。

「僕らを殺すだけだったら、もっといいタイミングなんていくらでもあったはずなんだ。でも君は待った。状況が発覚しても、誰も疑問を抱かない瞬間を待った。口封じだと言えば誰もが納得する。僕らを確実に始末するためだと言ってもいいね。君のごく個人的な欲望を満たすために、この状況はこの上なく都合が良かった」

 動きが散漫になってきたことに、シグルドは気付く。集中しきれていない。塩野が言葉をひとつ、またひとつ放つたびに鈍く、遅くなる。何も感じないとでも言いたげな無表情が、徐々に焦りへと変わる。

「君が『キャンディ』を摂取し始めてまだ日が浅いことは、その顔付きを見れば分かる。そうだな、せいぜい二ヶ月か三ヶ月前といったところだね。さっきのお兄さんと比べると随分差がある。それなのに、このお兄さんと一緒に作戦行動取ってるってことは、ここ最近で急にのし上がってきたってことでしょ? ねえ、どんな手を使ったの? 実力? それとも……」
「うるさい! 黙れ!」

 初めて、ナイフの男は声を出した。塩野に向かって振りかぶろうとするが、シグルドがそれを許さない。否応なしに再び斬り結び合いへと引きずり込まれる。

「ごめんねぇ、僕ってさ、黙ってたら商売にならないの。そういうお仕事してるから。知ってるでしょ? 僕のお仕事。本業の方。こう見えてもね、結構優秀なんだよぉ僕。すごいでしょお」

 話が逸れたように思えた。が、それは間違いだった。

「僕くらい優秀な人はねえ、少ないの。お世話になった先生と、DPSの生き残りと、ゼミの先輩方くらいかな。マサヒサ・タカホって名前、君は聞いたことある? 僕の先輩だったんだよ、この大学出身」

 なぜ、過去形なのか。そこがやけに引っかかる。だから、余計に塩野の言葉に耳を傾けてしまう。自ら音を拾いに行ってしまう。駄目だと分かっているのに。

「まあ、もし君がこの名前を聞いたことがあったとしても、だ。君は直接会っていない。会ったことはない。絶対に。……だってぇ、君が『キャンディ』もらえるようになったのって、僕が高帆さんブッ壊した後だもの!」

 ひひ、と塩野は笑った。楽しげな嘲笑が耳の奥にへばりついた。

「あの人が生きてるかどうかは分かんない。でもね、高帆さんの懐かしい記憶、掘り起こしてあげたの。小さい頃は海沿いに住んでたんだって、高帆さん。でも海が嫌いでね、見たくもなかったんだって。だから、海を大好きにしてあげたの。海も陸も同じだよ、怖くないよって、教えてあげたんだよぉ。そしたら高帆さん、海と陸の違いが分からなくなっちゃったんだ」

 まるで子供のように、他愛もない話のように、喋る。だが、話を聞いていた二人は嫌でも悟る。高帆という人物は、水面を陸地だと思い込むよう解体されてしまった。その他もまともな状態ではないだろう。
 そして、想像してしまう。ボロボロになった男が、ふらつきながら水面へ、さらにその奥へと歩いてゆく姿を。恐慌状態に陥る。陸地を歩いているつもりであるのに、足は取られ、息はできず、藻掻けば藻掻くほど苦しみは増す。逃げれば逃げるほど海の奥へ、奥へ。
 生きてはおるまい。そう簡単に想像できた。塩野が解体屋であるという前知識があるが故に、そこまで考えてしまった。塩野という男は、高帆という人物をそれこそ正に『壊した』のだ。

「高帆さんが地雷を埋め込む係だったのは間違いない。本人から聞いたからね。その高帆さんがいない今、彼ほどの完成度で地雷を作れる人間は存在しない。壊すことにかけてはピカイチだったからなあー高帆さん、あの情熱はどこから来てたんだろうねえ? ま、それはいいや。高帆さんが君達のところの幹部だったのも確実、これも本人から聞いた。残念ながらこれ以上の細かい情報は引き出せなかったけど、これだけ分かってればやりようはあるからねぇ。そう、君みたいな、高帆さん謹製・特別地雷が埋まってない、かつ『キャンディ』摂取経験のある人物を特定できれば……」

 悪魔だ。ナイフの男は確信した。やはり解体屋という存在は、悪魔そのものである。朗らかに笑う顔、その下に隠れているのは悪鬼に違いない。

「……ってことでシグルド君、準備はできたから、いいよ。彼は該当者だ。ただし、配慮する必要は、ない」

 瞬間、シグルドは踏み込んだ。咄嗟に男も反応し、首筋を狙ってコンパクトにナイフを振る。シグルドが柄で防ぐ。ほぼ同時に男の右手首をナイフごと左手で掴み、下向きに捻る。柄を持ったままの右拳を滑らせるように動かし、相手の右肘の内側に叩きつける。男の右腕は強制的に自身に向かって折り曲げられた。そのまま、シグルドは男の右肩に男自身のナイフを突き刺したのだ。
 絶叫を上げる暇さえ与えない。突き刺したナイフを引き抜いて奪う。ダンベルの柄を鳩尾へ真っ直ぐに突き出し打ち付ける。吹き飛ばされるナイフの男、仰向けに倒れるところに追いすがるシグルド。立ち上がろうと床に手をついた、その甲に容赦なくナイフを突き立てた。すかさず立ち上がり、足でナイフの柄を踏んで床に縫い止める。さらに、空いた片手も踵で踏み抜いた。手首の辺りから、ごきりと嫌な音がした。

「うちのボスじゃないが、まあ、せいぜい悔いて生きるといいさ」

 シグルドが執拗に狙ったのは、この男の戦力を根本から奪うという一点であった。利き手の肩と手の腱、さらに反対側の手も潰し、武器自体を扱えない状況に持ち込む。この後に命を永らえたとしても、二度とナイフを扱うことはできぬように。

「うっひゃあー、おっかなーい。痛そうー」

 他人事のように軽薄な言葉を吐きながら塩野が接近する。苦悶の叫びを上げる男の横にあぐらをかいて座り込むと、頭を下げて耳元に口を近付けた。

「絶対的な肯定感や幸福感になんか浸らせない。『キャンディ』の効果に縋ることは二度とできない。もう君は、恐怖感を思い出してしまったからね。さあ、君の知ってる限りのこと、洗いざらい吐いてもらおうか」


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恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。