見出し画像

26-1

「本日付を持って異動してまいりました、塚越光(つかごしひかる)警部補です。よろしくお願いいたします」

 感情がこもっていないかのような声で、塚越という男は名乗った。一部の隙もないスーツ、痩せ気味の体と顔、そしてなによりその目。まるで蛇のようだ。
 立花彩は、己と入れ替わりであてがわれたのであろう人物に対し、こんな感想を抱いた。

 熊谷警察刑事課。とっ散らかった机と書類と、慌ただしい空気感。立花はこの慌ただしさが嫌いではない。熊谷市の警察官として勤め早十数年、どんな課でも忙しいのはあまり変わらない。

 そんな中、悠長に朝からポテトチップスの袋を盛大に開けて食べている男が一人。西倉次郎(にしくらじろう)という中年のベテラン刑事だ。いかつい顔立ちに無精髭が生えたまま。くたびれたスーツとくたびれたシャツ、とりあえず巻きました程度のネクタイ。彼の様子はいつものことなので、誰も驚かないし注意もしない。
 こう見えて彼は優秀な刑事なのだ。刑事としては、優秀なのだ。だから、朝食代わりと称してポテトチップスを貪っていても誰も何も言わない。ポテトチップスの袋がパーティサイズであることにツッコミも入れない。

 その空気感を読み取ったのかそれとも目に入れたくないのか、塚越という男は素知らぬ顔でいる。何か言葉を続けようと、口を開いて息を吸い込んだ、その時。

「……塚ちゃん……? もしかして、塚ちゃん?」

 口の中にポテトチップスを入れたまま、西倉が呟いた。

「塚ちゃんだよな? 俺だよ俺、西倉だよ。中学の一年と二年と三年のとき同じクラスだった」

 それは中学時代ずっと、と言うのでは? その場にいる人間は皆、訝しんだ。
 ここでようやく、塚越の視線が西倉を捉える。虫けらでも見るような目付きで。

「覚えてない? 覚えてないの? 嘘ッ! 嘘よォ! アタイのこと覚えてるでしょォン!」

 なぜかオネエのようになる西倉。椅子から勢いよく立ち上がるが、クネクネしながら内股で塚越へと歩み寄る。

「アタイは覚えてる! 全部覚えてるわ! 野外飯盒炊さんでスイカ丸ごと持ってきて川で冷やして食べようとしたら先生に滅茶苦茶怒られたことも……眠気対策でメントール系の塗り薬を目蓋に塗るといいって塚ちゃんが持ってきて、昼休みに塗ったくって涙が止まらなくなって先生に滅茶苦茶怒られたことも……」

 全部先生に怒られてばかりだ。
 クネクネしたまま塚越の手を取り、冷ややかな視線にもめげずオネエを続ける西倉。

「アタイが生徒会長に立候補したとき、塚ちゃん、手書きでポスター書いてくれた……アタイの似顔絵も描いてくれたの、覚えてるんだから……すごくかっこいいモアイ、描いてくれたよね」

 ここで数名が耐えきれず噴き出す。確かに、西倉の顔はでかい。モアイというのはなかなかに芯を捉えているのではなかろうか。体格自体も大きくしっかりしているので、尚更モアイ感がある。

「何枚も何枚も描いてくれたモアイ、大事にとっといてあるのよ。本当よ! だから……だから思い出して! アタイのこと! 真実の愛を取り戻して!」

 塚越は西倉を冷めた瞳で見つめ、うつむき、長い溜息をついた。そして。

「……ッ馬鹿ぁぁン! アタイが、アタイがニッシーのこと忘れるわけないでしょぉン!」

 顔を上げ、全く同じテンションで、返した。

「塚ちゃん!」
「ニッシーだいしゅき! 昔っからだいしゅき!」
「塚ちゃぁぁぁああん!」

 むさ苦しい男達は互いに抱き合い、おいおいと泣き真似をしてみせた。黙って見ていた課長が壁の時計を見やり、溜息をつく。

「十分と保たなかったなぁ塚越。いや、五分も経ってないか」
「無理でした! 西倉に対してクール系装うとか無理! アーッハッハッハッハッハ」
「だからやめておけって言ったろうがよ」
「いや、今日は挨拶の日だからスーツ着なきゃって思って、着てみたら、あれー? 自分もしかしてクール系に見えるのでは? って思っちゃって」
「見た目だけはなぁ」
「ミステリアスなクールな冷徹な、そういう、なんかそういう、アレを、こう、なんか、演出してみたくって」
「その考えの時点でもう無理なんだよなぁ」
「普段は冷酷で無慈悲な感じなんだけど、時折見せるデレ要素みたいなのを、こう、いい感じに」
「もうお前が何を言っているのか俺はよく分からん」

 課長以外の面々も、彼が西倉と同じタイプの人間なのねと理解してしまった。既に塚越の顔から冷酷そうだった表情は掻き消え、満面の笑みである。大変に人懐っこそうな、可愛らしいくらいの笑みだ。
 立花は塚越に対する印象を変更した。おめめがつぶらで、うにゅっとした感じの口。なんだっけこれ、あれだ、コツメカワウソだ。

「えーと、西倉の隣のデスク空いてたよな。塚越、そこ使え」
「きゃあ! 片付けなきゃ!」
「キャア、じゃねえよキャアじゃよぉ西倉。空いてるとこを私物化すんなっつってんだろうがよぉ」

 慌ててデスク上を雑に片付け始める西倉、他の警察官達はそれぞれの仕事に戻ってしまう。完全に解散の流れだ。
 そんな様を眺めながら、塚越は指示された机のオフィスチェアに座ってくるくると回転し、勝手に西倉のポテトチップスをつまむ。

「のり塩うまいよね」
「分かる。のり塩うんまい。歯にのりが付くって分かってても食っちゃう」

 西倉はとりあえず書類やバインダーを雑に重ねて自分のデスクに移動させ、下から出てきたコンセントタップを引っこ抜く。そして、そのコンセントタップを新聞紙に幾重にも包みゴミ箱へ捨ててしまったのだ。わざわざ、それだけを。さらに上から新聞紙を重ねて捨てると、ようやく椅子に座った。

「さぁて、塚越」

 身を乗り出し、声を低くして、西倉は問う。

「ここに来た本当の理由はなんだ?」

 指についた青のりを舐め取りながら、塚越は西倉を見つめる。顔は、笑っていない。互いにだ。

「立花の後釜として来たってんなら、ちょっと早すぎやしねえか。急ぎの用事か?」

 塚越はしばし沈黙し、振り向いて課長の顔を見やり、小さく頷いてから西倉へと向き直った。

「……コンセント、使うよ。勿体ないっしょ」

 厳重に包まれ捨てられたコンセントタップをゴミ箱から取り出し、元の箇所に丁寧に刺しなおして、塚越は西倉を見る。西倉は黙って頷いた。塚越が何をしようとしているのか、西倉が何をしようとしていたのか、互いに暗黙の了解があった。


 目次 


恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。