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クラナドを見た。

クラナドというアニメを見た。高校生の男女が出会って、青春を共にし、いつしか付き合うようになり、結婚して子供を産み、育てるまでを描いた長い名作だ。母になった女の子は、出産時に不幸にも命を落とし、夫である主人公と赤ん坊を残していく。一人になり、苦戦しながら娘を育てる主人公の様子を見て、大泣きしてしまった。父のことを考えた。しばらく実家に帰っていない。秋にでも帰ろうか。
父は38で母と結婚し、40の時にわたしが生まれた。高齢で、かつ長い不妊治療を経てやっと生まれたわたしは、両親にとって待望の赤ちゃんだった。父と母はわたしにたくさん愛情を注いでくれて、たくさん写真を撮ってくれた。実家の引き出しにはアルバムが何十冊とあるし、成長記録に撮ってくれたビデオは何十本もある。父はその頃にはいい年齢で、仕事でも良いポジションについていたと思う。わたしが小学生に上がるころ、仕事が忙しくなり過ぎた父はすっぱりと仕事を辞めた。それから、小さな会社を立ち上げたが、うまくいかず、結局専業主夫になった。
父は幼いわたしをいろんな所に連れて行ってくれた。週末になるたびに、2人で公園に行って、帰りに温泉に入った。夏にはプールに連れて行ってくれた。歳が歳なのでだんだんと父は一緒に遊ぶことがなくなり、ベンチに座って見守るようになった。運動神経バツグンの父が、たまにサッカーやバドミントンで遊んでくれると、近所のサッカー少年たちにスゲエ!と囲まれることもあった。それが誇らしかった。運動会の前は、公園で徒競走の練習をしてもらった。父は40代にも関わらず俊足で、一度たりとも追いつけなかった。5年生のとき、毎日公園で自転車の練習をした。一生懸命車輪を漕ぎながら後ろを振り返ると、笑顔のまま手を離した父が遠くに立っていた。一人で乗れたことが嬉しくて泣きながら帰った。
中学生になると、母が単身赴任で引っ越し、父と二人暮らしになった。父は、料理本を見ながら毎日ご飯を作ってくれて、お弁当も作ってくれた。少食の私は残すことも多かったし、煮物ばかりのお弁当に文句を言ったこともあった。それでも父は翌日においしいお弁当を作ってくれた。たまに、海苔でハートの形やloveという文字を作った下手なデコ弁が入っていて、帰宅し、恥ずかしかった!と文句をいうと嬉しそうに笑った。週末は、必ずデパートやレストランやツタヤや本屋に連れて行ってくれた。でも、反抗期のわたしは文句を言うことも多く、父を困らせることもあった。本当に申し訳ないことをしたなと思う。一度も感謝を伝えることのないまま弁当生活は終わってしまった。わたしは中学生の頃から、過敏性超症候群という心の病気になった。ストレスを感じると突然ひどい腹痛に襲われるようになり、全身から冷や汗が出て意識が遠くなる。音が聞こえなくなることもあった。
高校生の頃から学校に行きたくない日が増え、遅刻が増えた。ある日体調が悪いから休む、というと今までに見たことないくらい鬼の形相をして学校まで連れて行ってくれた。その時は父のことをとても憎んだが、今は感謝している。あの時学校を休んでいたら、不登校になって、いまこの大学に通っていなかったかもしれない。高校1年生の半ば、先生に勇気を出して自分の病気を伝えると、授業中に席を立ってお手洗いに出ても目立たないように、と席を一番後ろのドア横に固定してくれた。先生お手製の席替えクジを引くと何故か必ずその席になり、友達から、運よすぎ!と小突かれて初めて、先生の優しさに気づいた。今でも大好きな先生である。父は、病気のことをたくさん調べて、病気に効くサプリや食品をたびたび渡してくれた。
高校2年生のとき、精神が不安定になり、突然自分の性別が分からなくなった。簡単に言うと、自分は女の子じゃない!男だ!と思っていた。家中から男の子っぽい服を探して着てみた。鏡に映る自分がちょっとかっこよくて嬉しかった。母は、「そんなふうに産んでごめん」といい、いつか元に戻るから、と何度も説得した。わたしは、成人式は振袖を着ない!と宣言し、母を困らせた。父は、なにも言わずseventeenという雑誌を買って渡してくれた。若い女の子が読む雑誌を見れば落ち着くと思ったのかもしれない。しばらくしてから、わたしの自我は、いつのまにか女の子に戻っていった。
高校3年生のとき、進路選択の時期になって、また母と大変に揉めた。工学部に行きたいと宣言した私に母は、厳しい口調で何度も教育学部に行きなさいと命令した。女の子は建築士になんかなれないよ、と。父は必死で私を守ってくれたが、父もわたしも母に抵抗することができず、結局母の言う通りに進学した。そのころから、母と父は大きく対立するようになってしまった。母はわたしに理想を押し付け、父はいつもわたしを守ろうとした。気の弱い、無口な父が母に怒鳴るところを何度も見た。父がわたしの味方でいてくれることが何よりも嬉しかった。
家を出て大学に入学し、一人暮らしを始めてからは、すべてが新鮮で楽しかった。毎日毎日、がんばることが楽しくてたまらなかった。ときどき、何故教師になりたくもないのに自分はここで勉強しているんだろうと生い立ちを恨み、夜に泣いた。でも、結局、勉強は楽しかった。
今年、大学4年になり、教師にならずに東京で働くことを決めた。母は、教師にならないと宣言したわたしに、電話口できつい言葉を毎日投げかけた。わたしのことを思って言ってくれているとは分かっているが、わたしに自分の理想ルートを押し付けようとする母に苛立ちを覚えた。東京で働くことは、自分への挑戦だった。母の言う通りにしなくても、自分の力で幸せを掴み取れるということを知りたかった。父は、わたしの夢を全力で応援してくれ、母から守ってくれた。就職したい会社が見つかった!というと、父は良かったね、と頷き、応援してくれた。そして、面接の練習や履歴書の添削を母に黙って手伝ってくれた。わたしを思い通りにできないことに腹を立てた母は、自分の人生を嘆き、その恨みを父にぶつけていた。わたしはそのことに気づくこともなく、実家から遠く離れた場所で、一人もがいていた。ある日、父から、母が毎日ため息をつき、わたしへの文句を自分にぶつけている、というラインが届いた。ハッとした。わたしのせいで、家族がまた壊れていく。どうしたらいいのか。やはり自分は教師になるべきなのか。わたしが母の言う通りにすれば、すべてが上手くいく。みんなが幸せになる。父に電話をかけ、やっぱり先生になるよ、と言うと、父は「自分の人生は自分で決めなさい」と強い口調で言った。自分のやりたいことをやりなさい、それが親の幸せだ、と。
今、わたしは東京で働くことを決め、就職したい会社から、ありがたいことに内定をいただいた。今はただ、これから始まる新たな人生に、期待と嬉しさでいっぱいだ。これまで、人生でたくさんのことを経験してきたが、そのどれもが、親の支えあってこそだった。母は厳しかったし、一緒に遊んでくれた思い出もないが、余裕のある時は美味しいご飯を作ってくれたし、いつも私を心配していた。心配が強すぎて、それが裏目に出てしまったのかもしれない、と今は思う。父に代わって毎日仕事に出てくれたことも感謝している。これからは、父や母の支えを受けずに自分の力で生きていかなければならない。失敗も多いだろう。でも、そのすべてが、今のわたしには楽しみに思える。初めて自分で決めた人生なのだ。親に感謝しながら真っ直ぐに生きて、わたしも東京で生きていけることをその背中をもって証明したい。それが一番の親孝行に思えるから。

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