俺マンのジレンマと、たったひとつの約束

年末も年末、残りも数時間となったタイミングで、俺マンについて書かなくてもいいかもしれないことを書いておこうと思う。かなり長い。それは、今考えていることをできるだけ正確に伝えようと思った結果だ。だが、それでもどの程度自分の温度感が伝わるか、わからない。だからこそ、毎年書かずにいたというのも事実だ。

あらかじめ書いておくが、別に今年何かがあったわけではないし、どれかについて名指しで何か思っているわけではない。ここ数年毎年、書くべきか書かないべきか、どう対応するか、あるいはどう対応しないかを考えてきたことについてだ。

※「俺マン」とは:毎年年末にTwitter上で行っているマンガの年間ベスト投稿企画。詳細はこちらで。

結果として、今年もどうすべきか結論は出ていない。だから、公式サイトには掲載しない。運営として、オフィシャルとしてではなく、あくまで主催という形で関わってきた個人としての思いとしてnoteにまとめた。そういう形で受け取ってもらえると嬉しい。

自由参加アワードのジレンマ

俺マンはおかげさまで今年9回目を迎える。始まったときには思いもよらなかったようなことが毎年のように起こり(自分が「起こした」というよりやはり「起こった」としかいえない)、思いがけないところに行き着かせてもらった。幸せな企画だと思う。

その上で、俺マンは課題やジレンマも抱え続けてきた。筆頭はなんといっても持続性のある運営体制をいまだ築けていないことで、これはひとえに僕の責任なのだが、それ以外にもいろいろと悩むことはある。

そのひとつが、組織票的な動きについてだ。組織票的な動き、つまりクラスタ的な特定作品への投票呼びかけの動きである。

これは俺マンがそれなりの規模になるにつれて、必然的に生まれた動きであり、いってみれば発生して当然ともいえる動きだ。ユーザー投稿を募り、それを集計する企画が生まれる。やがて参加者が増える。参加者はマンガの読者、ファンである。ファンは自分の好きな作品を推したいと思う。自分の好きな作品が上位にランクインすれば嬉しい。どれも自然なことだ。

運営サイドとしてもそういう動きは素直に嬉しくもある。楽しんでくれている人が増えているんだと感じるし、作家さんや版元さんが「ぜひよろしく」と一言書いていく様子は「喜んでもらえているのかな」と、本当に喜びを感じる。ファンの勝手な祭典である俺マンを、つくり手も楽しんでくれているなら、こんなに嬉しいことはない。いつでも「私の作品もよろしく」と書いてもらえればと思っているし、どう触れていただいても一向に構わない。このエントリーを書いたことで変に遠慮したりしないでもらいたいというのは、嘘偽りない今の本音だ。

ただ、ジレンマでもある。俺マンは出発点から見れば想像以上に参加者を増やしたが、完全自由投票であり、票が散るという特性もあって、1位を獲る作品の得票数は100票程度。過去最高得票でも『ダンジョン飯』の167票という規模だ。

この規模のランキングは常に薄氷の上に成立している。たとえばだけれども、『ONE PIECE』のようなビッグヒットタイトルのファンが「俺マンを獲らせよう」と少し動き、それがちょっとファンコミュニティでバズれば簡単にトップを獲らせることもできるだろう。

俺マンのレギュレーションはこれを禁じていない。それだって間違いではないのだ。いつもいっているとおり、俺マンはアワードではあるが、同時に集計結果などというものは参加者、母集団の傾向調査に過ぎないともいえる。参加資格を縛らない、レギュレーションを可能な限り緩く設定するという形でやっている以上、母集団が変わることも、集計結果が変わることも押しとどめられないし、押しとどめるべきではない。「俺のベストを選ぶ」が「俺好みのランキングをつくる」にすり替わることは許されない。

だが反面、仮に『ONE PIECE』(何度も例に使っていて大変申し訳ない。今の部数的なヒット作でイメージしやすいということで挙げているだけなのでどうか誤解しないでいただきたい)がファンの組織的な動きでトップを獲ったら、たぶん「何か違うな」と感じる人が多いだろう。もしかしたらそういう動きを経て、今とは違う形に脱皮するかもしれないが、脱皮に失敗して企画自体が消えてなくなる可能性も大いにある。別の何かを手に入れるかもしれないが、少なくとも現在の俺マンが持っている一種の熱は失われるだろう。

それはそれで宿命でもあるが、発起人、主催として関わってきた身としては、できれば俺マンという企画をどうにか存続させてあげたい、みんながもっと楽しめるものとして残してあげたいという思い入れがある。そういうなかで、「じゃあ何が正しいのか」ということに悩み続けて数年が経っている。そもそもどこからが「組織票」なのか、何をもって「違う」とするのか、どれも曖昧で、突き詰めればこちらが勝手に思っている主観ともいえる。

カレー沢クラスタという俺マンの幸運

俺マンのひとつの幸運は、最初に出会った組織的ムーブをするクラスタがカレー沢薫のファンたちだったことだと思っている。

俺マンとカレー沢クラスタとの出会いはたぶん2012年、企画誕生の翌年だったと思う。名前などに「カレー沢薫親衛隊」と入ったアカウントがそれなりの数で参加してきて、カレー沢作品に票を投じていった。2012年は「アンモラルカスタマイズZ」の刊行初年でもあり、別におかしな動きではないが、一方で前述のとおり俺マンは規模が小さく、特に企画誕生翌年というタイミングでは、こうした動きは脅威でもあった。組織票的な遊び場になれば、即座に企画は消えてなくなったはずだ。

ただ、繰り返しいうように、俺マンが「俺の年間ベスト」である以上これはまったく間違いではない。これに口を出せば、それはそれで企画として終わりでもあった。結果的に票数としてはランキング全体を決定づけるようなものではなかったため、俺マンはそれなりのカラーを保持したまま存続したが、この時期はかなり緊張してもいたのを覚えている。

「カレー沢クラスタの仕業」という大変作品に対して不誠実な言葉は、そのジレンマと折り合いを付けるための苦肉の策でもあった。集計結果に対して「俺マンのレギュレーション上一切問題はないが、特定のファンクラスタの動員はある」ということを明示しておくことでバランスを取る。なおかつ、そうした動きを禁止せずに共存していく。そのための表現が「カレー沢クラスタの仕業」だったのだ。

いわゆるカレー沢クラスタもこれを十分に理解してくれた。カレー沢作品を片っ端から挙げていくだけでなく、多くの人がそれ以外の作品にも票を投じていった。カレー沢作品はもちろん好きだが、マンガ自体が好きで、好きな作品はたくさんある。それを示してくれた。さらには「仕業」という扱いを楽しんでくれもした。これは主催として感謝してもしきれないことだった。

誤解のないようにいっておけば、僕自身もカレー沢作品は好きだ。毎年イベントで「カレー沢クラスタの仕業」を恒例のようにいじるのは、何のことはない、自分自身も楽しんでいるからでもある。むしろここ数年は特に、作品自体にしっかりと力や人気があるのに「仕業」という言葉で「局地的でカルトな作品」と受け取られる悪影響の方が大きくなっている可能性がある。これに関しては作家さんに対して大変申し訳ないという気持ちだ。

いずれにせよ、カレー沢クラスタとの関係は(少なくともこちらから見た印象としては)うまいところに落ち着き、俺マンの名物、裏看板として定着することができた。今やカレー沢作品のない俺マンは、ちょっと僕には考えられない。カレー沢クラスタとの関係は、俺マンにとって組織的なムーブ、熱心なファンクラスタとの付き合い方のお手本になってくれた。

俺マンの二枚舌

どんな動きともこういう関係を築いていければそれが一番いいとは思うのだが、カレー沢クラスタと俺マンの関係はレギュレーションの外側にあることであり、そこにルールなどはない。何か直接的な話をしたわけでもなければ、こうしてくれと言ったこともない。そもそもこちらに明確な正しさの物差しがないのだから当たり前だ。

アワードというもの自体もそうかもしれないが、こと俺マンにとっての「正しさ」は難しい。組織票的な動きというものに明確な定義はないし、明確化できたとしても禁じる大義はない。それぞれが今年1年のベストを選ぶのが俺マンであり、ファンの動きはそこから一歩もはみ出していない。特定の作品だけ除外するとしたら、それこそ横暴であり邪悪だ。

また、俺マンにとってはこうしたムーブに何かを言うこと自体、実は二枚舌でもある。俺マンは常々「俺のランキングを紹介すること、友人や趣味の合う人のチョイスから新しい作品に出会うことが最大の意義であって、ランキングは副産物に過ぎない」と主張している。実際、そこが出発点であり本質だ。

だが、一方で副産物であるランキングを中心にイベントを組み、発表を行っているのも俺マンだ。「個人のチョイス」を掲げつつ、結局アワードでもある。あげくファンのチョイスにケチを付けるなら、二枚舌のペテン師と呼ばれても何の反論もできない。アワードを意図的にカラー付けしたり、アイデンティティを守るためにコントロールしたいならば、やるべきことは苦言を呈することではなくレギュレーションを調整することなのだ。

一応の抑止策はないわけではない。たとえば「投票作品の上限は設けないが、下限は設定する」「同一作家のみの投票は無効とする」といったレギュレーションを組めば、特定作品だけに投票したものを排除することはできる。

だが、レギュレーションがゆるいこと、実質的にほぼレギュレーションが存在しないこと自体が俺マンのアイデンティティでもある。だからこそ「これをやらないと年が越せない」と言ってくれる参加者もいるのだと思っている。ランキングのために俺マンの自由度を下げることは、少なくとも主催の望みではない。

そういう葛藤のなかで、毎年俺マンは危ういバランスを維持してきた。今年もレギュレーションの追加は行わなかった。できれば今後も、毎年の俺マンには余計なレギュレーションを加えることなく進められればと、今のところは思っている。

俺マンのための、たったひとつの約束

じゃあなぜこんなエントリーを、年末も年末に書いたのかというと、ひとつだけ投げかけたいことがあるからだ。

それはすでに書いたことでもある。「集計結果、ランキングを目的化することを、僕は俺マンに望まない」ということだ。

何度も言っているようにファンのムーブは正しい。俺マンの趣旨とも合致する。集計係としてクラスタの動きをイベントで伝えることはあるかもしれないが、これを禁じることはしない。

だけど、たったひとつ、この年末に改めて問いかけてほしいことがある。好きな作品の上位ランクインを狙って動くことは、果たして「自分のベストを選ぶこと」なのか、と。

実は僕個人は、俺マンの最大の楽しさは、誰かのチョイスを見たり、ランキングを見ること以上に、選ぶこと自体にあると思っている。何作選んでもいいし、どういう基準でもいい。だけど、「あれもあった」「これもよかった」と振り返り、1年の終わりにいろんなマンガを思い出す。そういう習慣をつくれたとしたら、それが俺マンの最大の意義だと思っているのだ。

僕は、できるならそこに多くの人が純粋であってほしいと願っている。読むという行為は、誰かとつながるきっかけにもなるけれど、本質はたったひとりの行為だ。作品と自分だけの、作者すら介入できない関係だと思っている。

そのなかから自分の好きな作品を選ぶという行為も、誰かに介入を許す必要はない。世の中の誰も好きだと言わなくても、「この私」の好きだという気持ち(あるいは嫌いという気持ち)には無関係だし、誰もそこに本質的にケチを付けることはできない。

それは「覇権」という言葉が一定の市民権を得たことに対する違和感ともつながっている。売り上げやランキング、アワードで評価されることは重要なことではある。商売を成り立たせるため、ひいては作品が存続するための重要な要素にはなる。もちろん単純にファンとしても好きな作品が評価されたら嬉しい。それは僕自身もそうだ。

だけど、そういう商売っ気がイヤだから、自分だけの何かを選びたいからスタートし、みんなが参加したのが俺マンなのではないだろうか。

僕に言わせれば、みんな自分の気持ちに自信がなさすぎる。世界中の誰が文句をいおうと、あなたの好きは本物なのだ。それが世の中とズレるなら、世の中がバカだと思っておけばいい。そういう強くて揺るがない好意にこそ、人は惹かれるのだと思う。人が作品を薦められて読む理由は、結局のところ薦める人の熱なのだ。票を集めるより、その熱量を語ってくれる方がよほど人は動かされると、僕は経験的に感じている。カレー沢クラスタがそうであるように。

僕は主催として、「俺のベストを選ぶ」が「俺好みのランキングをつくる」にすり替わることのないよう、俺マンが何とか邪悪にならないように可能な限りのベストを尽くそうと思う。だから、参加する人も年に1度、この瞬間だけ自分の思いが「俺好みのランキングをつくる」にすり替わっていないか、問い直してもらいたい。俺マンがひとつのお祭りとして残るためのたったひとつの約束ごとは、たぶんそこにあると思っている。

俺マン公式サイト:https://oreman.jp/

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