『そこをなんとか』で見える、麻生みことの女神たち

私のTwitterのTLにはものすごく信頼している人が何人かいる。「この人が面白いというなら、これはもう面白いだろう」と思っている人だ。その人たちの審美眼が世の中一般で見てずば抜けて優れているという意味合いではない。私が美しいと思うものとか、悲しいと思うこと、苦しさを感じるものが、すごく近いんだろうな、という人だ。

そんな人の1人が『そこをなんとか』の新刊について「すごくよかった」と書いていたので楽しみにしていた。で、案の定大変よかった。まあ、いつも面白いし、後半の赤星のターンももちろん素晴らしかったのだけれども、たぶん12巻で「特に」というのは、最初に収録された第47話だと思う。これでしょ、好きなの?

さて、それはそれとして。麻生みことのマンガを読むとき、人が何に軸足を置くかはわからないけれど、私の場合はまず女神たるキャラクターを見ている。麻生作品にはいつも女神がいるのだ。『そこをなんとか』の場合は、主人公の改世楽子(らっこ)だ。

■人が法律を必要とするとき、法律は人を本質的に救えない

『そこをなんとか』は新米弁護士であるらっこのお仕事奮闘記だ。帯でも弁護士ものという部分がプッシュされていて、実際法律絡みの話、弁護士の仕事事情はとても面白い。だけど、何より面白いのは『そこをなんとか』は「法律が出てくるべき場面というのは、本質的に法律では救えない」ということをよく理解している点だ。

法律、とりわけ民事絡みのものはたいてい「どうにも当事者では落としどころの見えないところまできてしまったもの」を調整するためにある。ここで重要なのはせいぜい法律がめざすのは調整だということだ。離婚調停でも何でもいいのだけれど、法律は何らかの落としどころを付けてはくれるけれども、落としどころにたどり着けばすべてが解決するわけではない。衝突する複数の権利に裁定を下すわけだから全員の望みが完全に叶うことはまずないし、仮にそんなことができたとしても、すでに生まれてしまっている禍根は消えない。

『そこをなんとか』は、その禍根の部分に焦点を当てるのがうまい。法律をテーマにして、係争でドラマをつくりながら、法律による救済でなく、法律で割って割り切れなかった部分にこそスポットが当たっている。その割り切れなかった部分がくだらなかったりするのがまた面白いんだけれど。

■大文字の「正義」から自由である健全さ

じゃあ、わだかまりの部分をどう処理しているかというと、ここが面白い。普通そこにスポットを当てたのならば、新米弁護士の主人公が新米ならではの感覚だとか、法律でない部分での感性を発揮して人の心を救うというドラマに向かうものだが、らっこは全然そんなことをしない。彼女は仕事をするだけだ。失敗したり、怒ったりしながら、ただただ法律家として案件の終結をめざす。しかも、辣腕を振るうのも多くの場合、ベテランや優秀な先輩、同期たちだ。

「それじゃ、解決にならないじゃないか」と思うかもしれないけれど、そこがらっこの女神性なのだ。彼女は介入しない。世の中のすべてに対して深入りしないし、直接救ってもくれない。ただそこに超然といるだけだ。

つまり、彼女は「改世」という名前とは裏腹に、世の中のわだかまりをどうにかしようなんて思わないのだ。困ったり怒ったり情に寄り添ったりはするけれど、案件が片付けば何もなかったみたいにスパッとすべてを忘れてニコニコしている。

法律と係争に触れるとき、人はどうしてもその難しさに悩む。法律が解決し得ない、救済し得ないものに心をとらわれる。ほかのキャラクターたちにはやっぱりそういう苦悩の側面がある。そんなとき、らっこはあっけらかんとそこにいる。「全部解決なんてそんなことできやしませんよ」という顔でニコニコしている。彼女にはそもそも「世の中を正したい」みたいな義憤がない。だから、「弁護士とは」「正義とは」みたいな大きなものに対してあっけらかんとしている。その身も蓋もない様子に、物語は救われるのだ。「世の中を救ってやろう」「救うべきなのだ」という“正しい”重圧から、らっこは解放してくれる。

麻生みことの描く女神たちは、そういう存在だ。人を悩ます無力感、自分自身への失望といったものを、彼女たちはほとんど歯牙にもかけない。少なくとも苛まれたりしない。一言でいえば「底抜けにタフな明るさ」ということになるのだけれども、たとえばらっこには本当に文字どおり底が抜けたみたいなスケールの大きさがある。そういうすっぽ抜けた健全さを彼女たちは持っている。

そういう底が抜けたような健全さが、光のように物語を、登場人物たちを、そして物語を読む我々を照らしてくれるのだ。

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