レーティング、ゾーニング、あるいは表現規制のものさし

このところ、レーティング、あるいはそれにともなうゾーニングについて、改めて考えていたので、どちらかというと自分のなかでの整理整頓用にまとめておきます。レーティングが出発点なので、多少派生はするものの、軸足に青少年をめぐる話です。

いわゆる「不健全図書」がどうして不健全であり、レーティングされるのか。これについて「青少年の健全な育成に悪影響を及ぼす」「不健全」という言葉で説明がなされることが多いんですが、少し語弊があると思っています。

たとえば性表現が青少年からレーティング、ゾーニングによって隔離される理由は、「性が扱いの難しいものだから」です。他者の尊厳、人権、身体にダイレクトに触れるものだから、他者の尊厳や身体についての理解がないまま他者に向けると悲劇を生むことになる。

でも、セックス自体はそんなことがよくわからなくても、行為としてはできてしまう。肉体の準備が、往々にして倫理や知識の準備より早く整ってしまうわけです。だから、身体や尊厳を十分に教えるまでは、ちょっと単純に性欲を満たす目的の表現とは距離を置けるようにしましょう、というのがレーティングです。

つまり、ゾーニング、レーティングと性教育や人権教育は表裏一体で、隔離したところで知識の普及がうまくいってなければエラーを起こします。

割とよく出てくる手マン(ガシマン)問題はわかりやすい例のひとつで、身体に対する理解、教育が不十分なところに、エンタメ的表現、演出が教科書的に機能してしまっている。コンテンツに対してレーティング、つまり年齢規制をかけているけれど、レーティングされている間に身体についての知識が普及されていないので、成年になっても問題が持ち越されてしまっているわけです。

このエラーに対しては、2つのアプローチが考えられます。ひとつは「誤った表現、演出を規制することでエラーを防ぎましょう」。もうひとつは「正しい知識を浸透させておきましょう」。

この2つのアプローチのうち、どちらを取るかといったら、個人的には後者です。後者の方が全体メリットが大きいからです。

前者の場合、正しくない理解の抑止が狙える代わりにエンタメ的魅力は社会からひとつ消えることになります。でも、後者なら正しい理解が得られることでエンタメ的な魅力、表現の可能性はむしろ広がります。

ここでの「エンタメ的魅力」は、別にすべての人にとって魅力である必要はありません。それがほんの数%の人にとってしか魅力的でなくても、正しい理解さえ浸透していればリスクはないわけですから、たったひとりにとっての魅力であっても、少なくとも理論上は誰も損をしません。知識と教育は表現が持つリスクを抑制して、自由を拡張するわけです。

この話は「身体教育が完全に、100%浸透している」というやや現実味を欠いた状況を前提としています。現実問題としてはエンタメ表現が誤った教科書として機能するリスクがゼロになることはないでしょう。でも、たとえば殺人は、描き方について議論はあるにせよ、現状、エンタメ表現として大枠では許されているわけです。これは「現実社会での殺人は許されない」という倫理が基本的には社会に浸透しているという信頼感があるからです。フィクションが多少ハメを外したところで、リスクにはならないはずだという信頼です。逆に、いわゆる子ども向けでこうした表現が特に議論になるのは、子どもの倫理に不安があるからです。

そういう意味では何らかのレーティング、ゾーニングといった手法がとられるとき、考えるべきは実はコンテンツの表現の過激度というより、教育や倫理といった「社会の耐性」がどの程度あるかということです。

この耐性(あるいは耐性への信頼)が低くなるほど、レーティングやゾーニングといった方法を、やむない次善策、現実解として受け入れる必要が出てきます。そして、この社会の耐性がどの程度あるかは非常に把握しづらいので、現実的には「いいだろ(大丈夫だ)」と「ダメだ」の綱引きが行われるわけです。よく出る「悪影響がデータとして立証されているのか」というのは、この耐性を考えるひとつの指標でしょう。

もちろん知識や社会倫理的なるものが100%浸透するというのは、実際にはありえないので、この綱引きは決して終わりません。終わらない綱引きのなかで、仮の線引きをし、同時に社会の耐性を引き上げていくのが、社会と表現、あるいは自由のひとつの関係性だといえるでしょう。

レーティングとそれにともなうゾーニングと、表現自体への規制を考えるときのひとつのものさしとして、こんなことを考えています。

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