鴨居まさねは「女子」を描かない。だから、女の子を描ける……『にれこスケッチ』(鴨居まさね)

4年半ぶりに帰ってきた鴨居まさねは、実に鴨居まさねらしかった。『にれこスケッチ』の話だ。

『にれこスケッチ』は、もうすぐ29歳になる三姉妹の末っ子・楡(通称・にれこ)が主人公の物語だ。子どもの頃から憧れ続けた「かっこいいキヨタくん」との関係、就職と将来のことなど、いわゆる「アラサーもの」の要素がしっかり詰まっている。

だが、面白いのはそれでいて『にれこスケッチ』が、「女子」も「アラサー」も描かないところだ。

何を言っているんだ、と思うかもしれない。そりゃそうだ。にれこは実際アラサーだし、女の子なのだ。傘職人であるキヨタくんの会社でバイトをしているけれど、正社員にすることはないと宣言され、そんなときに実家を継いでブラシ職人になるよう説得される。すでに結婚している「かっこいいキヨタくん」への想いも、区切りを付けきれないままでいる。キヨタくんの方は一貫してにれこを異性として扱っていないのにもかかわらず、だ。

物語、にれこを巡る要素は、どう見てもキャリアや恋愛の転機であり、それはつまりアラサー女子の物語がテーマとするところそのものだ。にもかかわらず、『にれこスケッチ』は「アラサー女子マンガ」というフレーズが少しもフィットしない。

「女子」も「アラサー」も誰が願ったわけでもないけれど、結局のところ呪いになってしまっている。「女子」は若さの縮小再生産を言外に要求し、「アラサー」は「若さの賞味期限」を突きつける側面を内包している。若く美しいということを美徳として、いつまでも「女子」であることを強要し、「アラサー」という締め切りで脅迫してくる。

『にれこスケッチ』は、28歳の女性を描きつつ、そういう呪いから自由な物語だ。にれこ自身を含め、登場人物たちは基本的に「もう何歳だからこうしなければならない」という思考をしない。いつまでも不安定なことや、いい年して頼りないといったことを心配されたりあきれられたりはするけれど、「結婚しなきゃ」とはいわない。

たとえば、にれこの母は「お姉ちゃんたちには結婚のときあれこれ支度したけどあんたは無さそうだから」「嫁入り支度のかわりと思ってバーンとリフォームすっか」なんていう。そこには「適齢期」的な年齢リミット感はある。「結婚でもしてくれれば安心できる」という思いも入ってはいる。だが、「アラサーで結婚の見通しもないなんて大変だ」というニュアンスはない。「結婚しろ」というプレッシャーはそこには皆無なのだ。「結婚しないならこういうケアをしておこう」という考え方だ。

そして、「女子」的なるものへの脅迫がない。にれこは「かっこいいキヨタくん」といっしょに歩いているときにも無造作にキンカンを塗りたくり、ボリボリと背中をかく。ブラシ屋をやることを決めたときには、プレッシャーと戦うように豪快にシャドーボクシングをする。そういうにれこに対して母は「女の子なんだから」とは言わない。キヨタくんも「男ウケが悪い」と笑うことはあっても、「女らしくしろ」とは言わない。そういう子であるにれこを、誰もが笑ったりしながらそのまま受け入れている。

逆説的だが、だからこそ『にれこスケッチ』は「女の子」を描けている。にれこは「女の子らしさ」「女子力」とは無関係に、オシャレをして、きれいなカフェで姉と休憩し、かわいいもの(傘のボタンやレース、タコなど)に目を輝かせる。あるいは、にれこの祖母はおばあちゃんの世代になってなお、体重に一喜一憂する。

そこにあるのは、「女の子らしくなければ、かわいくなければ女ではない」という脅迫から自由になったからこその、「女の子らしさ」の謳歌だ。今流通する「女子」「アラサー」には、いつか「女の子」から外れてしまう、卒業しなければならないという脅迫だ。だけど、鴨居まさねの世界では「何をしていても、何歳になっても彼女たちは女性だ」という当たり前のことが描かれている。そこでは、伝統的な(いわゆる)女性らしさを楽しむこともできるし、いわゆる女らしさなんてものを無視することもできる。

鴨居まさねは、「女」という言葉に込められてしまった呪いを軽やかにほどいてくれる。次の10年、「女子」と「アラサー」を駆逐するのは鴨居まさねであってほしいと思っている。

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