「関係はあるけど興味はない私」は、正しさにくたびれている

社会正義に嫌気がさしている。

こういう話をするのは職業上も都合が悪いのであんまりしたくないのだけれど、くたびれているものはくたびれているのだから仕方がない。

社会正義に基づいた個別の主張が間違っているとか正しいとかいう話ではない。むしろたいがいの社会正義に基づいた主張は「なるほど、実に立派だ」と思うし、表現にしろ何にしろ、自由や権利といったものは放っておくとどうしようもないものになってしまう。何人かの立派な人たちだけが抵抗してもダメで、より多くの人の意思と力が必要になる。そして、そういうものは基本的にあまねく人にとって非常に重要なもので、誰も無関係ではいられない。それはわかる。

だけど、人の生活という足もとはたいていの場合正しさでできてはいない。正しくはないものを正しくはない食べ方で食べたり、正しくはない話をしたりして、正しくはないけれど、それなりに楽しかったり苦しかったりする日々を一生懸命生きている。多くの人はそういう生活のなかで、それでも何かひとつくらい、という感じで新しく正しさを積み重ねようとしているんだと思う。

僕から見ると、そういう人たちに対する言葉として正しい人たちの言葉は乱暴すぎることが多い。「○○する人たちはこうだっていうんですか」「○○な人はこれを踏みにじっている」、もっと直接的なら「愚かだ」「バカだ」「どうかしてる」と述べられたりする。無知を責め、誤りに怒る。そして、「なるほどそうか」と素朴に思って賛同すれば、今度はそれに反対する人たちから同じような言葉を投げかけられたりする。

言葉を発する、あるいは何かを表明する、選び取るというのは本質的にそういう行為で、選び取った瞬間から誰かの「違う」に晒されることを意味している。むしろ称賛だけがあふれる方が不健全だ。

けれど、健全だとか不健全だとか避けられないとかそういうことは、素朴で正しくはないところで営まれる日々の生活にとっては縁遠いことだったりもする。もっといえば、たいがいの場合はみんな全然興味がない。

こういえば「いや、ちっとも縁遠くない。この問題は生活に直結しているのだ」と返ってくるだろう。そのとおりだ。

だけど、世の中というのは「関係はあるけど興味はない」で満ち満ちている。政治も経済も学問も、その他諸々のあらゆることはどこかで市井の私たちの人生に関わっていて、どれも重要な役割を果たしている(だろう)。だから関係はある。だけど、どれもそれぞれの専門分野の人たちが「これが正しい」を追い求め、それこそ人生をかけて議論が続き、失敗したり成功したりしながらそれでも結論にいたらなかったりしている。ひとつの問題でもそうなのだ。それを「関係はある」というだけでひとりの人間が網羅して何かを選び続けるというのは、ハッキリ言ってしまえば不可能だ。少なくともただ営む人には酷な話と言わざるを得ない。なまじ選べば責められるのだ。割に合わない。そうして「関係はあるけど興味はない」人たちはますます遠ざかる。ことによっては「関係はあるけどその話自体が嫌い」な人になる。「関係はあるはずなのに、何が正しいかわからないし、興味も持てない」と苦しんだりもするかもしれない。

正しい人たちにはその人たちの姿が見えているだろうか。「関係はあるけど興味はない」人たちは、正しい人たちが味方にしたい人たちのはずだ。なのに、「興味がない」のは危険だと脅され、「関係はあるはずなのに」というコンプレックスから苦しみの無言が生まれ、ただただ言葉にくたびれてしまう。

僕は「関係はあるけど興味はない」はひとつのまっとうさだと思っている。少なくとも営みというのはそういうものだと考えている。正しさは「関係はあるけど興味はない」の尊厳を踏みにじるほどのものなのだろうか、と。

そういうふうに僕は今、社会正義に嫌気がさしている。正しさは必要だ。だけど、これからの正しさは「関係はあるけど興味はない」の上に営まれるものに敬意を持つものであってほしいと思っている。それはきっと正しさを実現するための力になるはずだ。

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