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人間擬態

求められる役割をこなして、少なくとも忌み嫌われる私の核心を隠して過ごさなければならない、人間社会はそういう場所ばかりなのだと現実を突きつけられる。

そうではない場所もあることは知っている。擬態なんてしなくとも(無意識的にしている可能性はある)、そのまま友人で居てくれる人も、そもそも似ている人たちの集まりもある。本音を言ってしまえばそういう所だけで生きていたい、でもやっぱりそういうわけにはいかない。

偶に、幾らか昔の大学生を羨ましく思う。夜通し酒でも呑みながら哲学談義をしていたと言う、今は白髪の世代くらいの。そういう交流ができるのかなと少し期待をしていたのに、いざ入学したらそんなことはなかった。そりゃゼミは哲学なのでゼミでは出来るんですけども、理系と分類される人たちの視点も知りたいし、同じ文系でも中味は全然違いますし。

SNSがある今、分野も世代も超えた交流ができたり、同類に出会ったりしたいなと思って、こうしてふらふらと活動している。擬態しなくて良い居場所の一つにはなってきた。でもやっぱり、繋がりの半分からは結局擬態を求められている。わざわざ現実の一般人とも繫がってしまっている。逆にすぐ関係を切れるというメリットの下、一般人の思考が知りたいという好奇心を満たすために色々と聞き出せるのではないかと思っている。如何せん話下手なので実行できたことは殆どない、(あったけど聞き方が悪くて怒らせちゃった。)

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擬態しないと生きていけない。
少なくとも今の資本主義社会ではこの核心を求められていないし、寧ろ避けられる。核心に依る交流は現実とは外れた場所でしなければならない、そうしなければ只々生き辛いだけだから。

言語による認識、言語化が最近になってようやくまともにできるようになってきた。その弊害がこれだ、今まで無意識的にしていた擬態を、自分で言語化という仕方で理解してしまったから。今まで認識していなかった疲労を、はっきりと疲労だと知ってしまって余計に疲れる気がする。

二十歳になる前は、まだ制服を纏っていた頃は、私とは違う人間を大人や社会人と呼んでいた気がする。でもそれは誤りだった(話がズレるのでまた今度書こうと思う)。この年(21)になってまで、未だに振る舞いの正解がわかっていない、そして今後もわかる気がしない。自我を貫こうにも、染み付いた無意識からの擬態が抜け切れない。もっと早く気付けばよかったのか、それとも気付くことなく死ねばよかったのか。わからないまま進んでもいいとは思うけど、それに耐えきれなくなって死ぬ可能性は大いにあるんだよな。

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人間と関わらなくて済むならそうしたかったけれど、人間としての甘えた生活に慣れきってしまって、今放り出されたら人間として以前に生物として死んでいそう。それに、人間の全てが嫌いなわけじゃなくて、過去の思想家や周りの同類から紡がれる思想や作品たちは好きなんだよね。どんな形であれ、言葉でも絵でも音楽でも、何でも良いから実世界に物体として形になっている出力物は好きなんだよね。だから一切の関わりが無くなるのはちょっと寂しいというか、そもそも自分の中味のアップデートもできないから困るかな。

以前書いたように、自分の中で結論を出したらこの人生もう充分で、さっさと死にたいという気持ちと、(未遂だと後が面倒だとか、事故物件になるだとか、瞬間の苦痛は嫌だとか、結論は出さないとだとか、そういう)様々な理由でこの世に自分を縛り付けているんだから死ぬなよって気持ちとでずっと揺らいでいる。リアルの友人には「お前は診断されてないだけの躁鬱なんじゃね?」って言われちゃった、その人が実態に詳しくないってのもあるかもだけど。そういう外的要因なのかもしれないけどさ、兎に角早く死にたいから、終わらせたいから、その結論を出すために必要なことだけをさせてほしい。現実は難しいから、せめてネットだけでも擬態しなくていいように在りたい。

多分この問題に解決策なんて無い。現実に耐えて、現実から絶えないようにして、絵とか文章とかで吐いて、誰かの出力物で吸って、擬態しない場所で息継ぎをして、また生物として生きるために現実に戻って、そういう風に曖昧に暈して目を背けるしか無い。一体何時までこれに耐えられるんだろうか、どこまで体力が在るんだろうか。

今日も人間に、いや自分も人間だから、現実の一般人に擬態して過ごさなきゃいけない。人間じゃない!って殺されないように。

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