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漠然とした「死にたい」の分解

前提


死にたい理由は様々あるだろう。仕事?学校?金?容姿?病気?人間関係?家庭環境?将来の不安?将又気温?季節性?ホルモンバランス?睡眠不足?栄養不足?はっきりとそう言えるものや多分これだろうというものまで、何かしらはあるだろう。

しかし今回はこれらの具体的事象については触れない。原因から解決するのは、各々検索なり相談なり何なりして実行していけば良い。情報は有りふれている、全然解決しないと言って諦めてしまうこともあるだろうが、私からは何も言えない、関与できない。

私がここに打ち込むのは、これと言って死にたい理由も思い浮かばないが、ずっと漠然と死にたくて、希死念慮とは肩を組む仲になった自分の話である。もちろん気付いていないだけの理由はあるかもしれないが、気付いていない以上話題に挙げることもできない、故に触れない。

この世界にはどうせ似たような人間がその辺にごまんといる。だから同様に私のような人間もいるのであろう。私が考えているこの段階よりも先にいるような、上位互換的な人がいるのであれば出会ってみたいし話を聞いてみたいと思うが、とりあえずは今の自分を書き記そうと思う。

死にたいとばかり嘆いていてもそれ以上何も解らず全く進まないため、一旦他の言葉で言い換えてみようと試みた。その結果としては、「溶けたい」「苦労したくない」「楽をしたい」「救われたい」、或いは「愛されたい」というのも少しはあった。他にも恐らくあるのだろうが、今はこの中から3つほど取り上げて中身について詳しく書いていく。(思ったより長くなってしまったので目次付けました。)


苦労したくない

苦労したくない(=楽をしたい)という気持ちは誰しも持っていることだろう。楽をするために効率良く仕事を済ませようとしたり、家事を減らすために家電を導入したり、人類全体が楽をするために科学が発展し便利な道具が作られたりする。そうやって楽をするために何か行動し努力する、人間にとってごく当たり前の営みである。

反面、人間には自己実現がしたいという欲求がある。自己実現にはそれ相応の努力が必要だ。楽をしたい、苦労したくないという欲求を超えるほどの。

それでもやはり楽をしたい。だからどちらかを選ぶことを迫られ、大抵は楽をする方を選択する。私も漏れ無くそうだ。できる限り楽しい事だけ、できる限り苦労せずに生きていたい。自己実現すら自分が容易に受け入れられる範囲の苦労だけでできるものしかやりたくない、実現しようがしまいが、一人間の終末が死であることには変わりない。そして私は同時に、過去のこれまでと同等或いはそれ以上の苦労はしたくないし、過去と比べれば今が一番良いという状態に常にしたいと思っている。多少そうでない時があるのは構わないが、それが終わる兆しが見えた上でそこまでなら苦労を受け入れようという気になれれば、という条件の上でだ。

ではそれが叶わないであろう場面に直面してしまったらどうするのか。選択肢としては2択であろう。1つはとにかく逃げること、大抵環境要因だし、視野が狭まって逃げ道が見えないこともあるだろうが、大抵逃げられる場面だろう。そしてもう1つが死である。逃げ道といえば逃げ道なのだが、未来ごと消し去るという意味で別の物とする。今のところ2つ目を実行せずに済んでいるだけであり、現実にそうなってしまったら恐らく私は私を殺しているだろう。そう、端的に言えば「苦労しなければ生きることができないのならば死ぬ」と本気で思っているのである。

この理由としては反出生主義に近しいところがある。苦痛はあるが幸福もある世界(=生)と、苦痛も幸福もない世界(=無)であれば後者を選ぶという価値観を持っている。飽くまで求めるのは幸福であるため、生の世界でそれが手に入るのであればその方が良い。しかし苦痛を失くすことと天秤にかけたときに、どうしても無の世界の方が良いと思ってしまう。今から最初から生きていなかった、生まれなかったことにはならないので、敢えて強制的に無にする、つまり死ぬことを選ぶ他ないのである。

しかしやはり死ぬ瞬間は苦痛だろうし第一死ぬのは面倒臭い。身勝手に死ぬのは流石に迷惑だろうからせめて身辺整理はしたい、アカウントの整理はしたい。飽くまで自分一人ではなく、自分と関わる人間が幸福になれるように願っているので、自分の影響で幸福になれない、増してや不幸になることは私も嫌だと思うから、死ぬにしてもひっそりと死ぬのが理想だ。だから今はまだこうして息をしている。

救われたい

脳内で遠くから訴えかけてくる救われたいという自分の声が時々聞こえる。必ず同時に自分は死にたいとも嘆いているため、本質的には同様のものなのかもしれない。では自身が救われるために、自分を救うためにはどうしたら良いのだろうか。

それが全くと言っていいほどわからないのだ。

救われたいとは、そもそも何から救われたいのか、救われた状態とは何なのか、どうすれば救われるのか。何もわからないまま手当たり次第に行った行動は一時的な慰めでしかなかったし、定期的にそうして延命していく以外に道筋が全く見えない。死にたいと思わなくなることが救われたと言えることなのか、将又別のものから救われた結果死にたくならないのか。わからないから解決のしようがないのだ。今は一時的な慰めで、其の場凌ぎのように生きていく他ない。

先程までは死なずに生きることを前提にしたが、この前提を取り除けば、死は救済であるという直感がある。これも死にたいと思う理由になるだろう。救われたいのだから、救われるために行動しようとしたら、結果的に死に向かうことになるのだ。死は一度切りのため今は実行されていないが、実行したいという気持ちはずっとある。これが死にたいの一部である。

愛されたい

頻繁に思うこともないが、人々の中で多く挙げられる理由の一つとして在るので、自分の中でも私が思うより大きく占めている可能性を考慮して取り上げる。

そもそも愛とは何なのか、ということから考え始めてしまえば切りが無い。過去の思想家達がずっと話題にしてきていることの一つだが、この長い歴史を経ても尚明瞭な回答が無いため、私個人で結論を出すのは難しいし、出したとて早計に出してしまったやっつけの回答にしかならない。ただ提案することは可能なので、ここからは飽くまで頭の中の自分の声が意味するものに限定して、飽くまで一案として述べる。

冷静に文章を通して考える自分が思うに、煩く響く声が訴えるのは「意味と安心」だろうということである。

死にたいと願う反面、確固たる生きる理由のような、怠惰なまま生きていても良い許しのような、生きていくための支柱のような、そんなものが欲しい。所謂生きる意味というやつだ。

しかし人間には生きる意味など最初から存在しない。神が死んでからニヒリズムは在るし、実存は本質に先立つし、初めから世界に投げ込まれている。そんなものは疾うの昔に分かっている、割り切ったつもりだった。だからこそ好きに生きてやると歯を食いしばった時もあった、自分の脚を支えにして立ち上がった時もあった。それなのに、無意味なら別に死んでも良いじゃないかと、死んだところで何も変わらないんだと、ならば死にたいという声に従えば、この世界から降り立ってしまえば良いんだと、そんな気持ちが日に日に増幅されていく。

意味が無いだけではこんな強迫観念には駆られない。死の方へと引っ張られるのは、生が私を引き留める力が弱いというのもある。その引き留める力というのが、安心と形容されるものだと思う。或いは許しだろうか。自分でも具体的な事は何も言えないし、何も思い浮かばない。ただ感覚として漠然とそれを求めているだけだ。

自分で自分を許しましょう、なんてそこら中に溢れている言葉はあるが、そんなものはもう試してある程度の効果は体感した。その『ある程度』だけでは、根底から叫ばれる死にたいは掻き消されなかった。他にもネットに転がっているような方法は試してきた、但し自分一人で実行できるものに限るが。それでも少しは変化があったかも知れないが、根本的な部分は何も変わらなかった。寧ろ時間と共に悪化している気がする。

有り触れた反論

こう書いていると、寂しいだけじゃないの?とも思えてくる。しかしもしそれが真実だとしても、一体全体私はどうすれば良いんだ。これこそインターネットには情報が大量に転がっている、それでもこの有り様なのだ。一人でどうにかすることはどうやら不可能らしい。人に頼るのも、それを求めた人たちの成れの果ての姿はもうネットで見飽きた、もう十分だ。こんなにも実例を知識として知っているのに、それでも自分もそうしてしまうという程馬鹿にはなれない。外の他人に期待して何かを求められる程、私は強くない。このせいでまた苦しくなりたくない。

こんなにごちゃごちゃ考えてないで、目の前の楽しみだけ考えて生きてろよ。なんて説教が飛んできそうではある。そんなことを言われても、思考停止が出来ていたら初めからそうしているし、目の前の楽しみを掻き消す程にこう考えてしまうのだから、これはもう性なのだから、仕方ないのである。そもそも死にたい人間に生きろと言うのであれば、じゃあお前が生かしてくれるんだな?え?違う?なら何故そんな無責任な発言をするんだ?となる他無い。生きろと言うのは無責任な話だ。他人の人生何ぞ背負えるわけがない。だったら初めから何もすべきではない、生半可に生かされる方が死ぬより地獄だ。そう云うものが、もううんざりだ。…そんな人間も多いことだろう。

死なずにいる今、最後に。

今はまだ、死なないために強制的に、死なないための枷を作って、自分を縛って生きている。明日のバイトは行かなきゃだとか、来月LIVEに行くからだとか、会う約束をしているだとか、今負っている役割はやり遂げなきゃだとか、遺書は書いておかなきゃだとか。それは義務や責任という重苦しいもの、将又楽しみという慰め、どちらも自分を生に縛り付ける鎖や枷でしかない。それらを振り払えてしまう程の体力と、死にたいという意志が揃わないことを願う他無い。

これを書くのに約2週間掛けてしまった。その間に友人が自殺したという訃報が入った、負ってきた枷を全て投げ捨てて死んだそいつの無責任さが心底羨ましく思えた。今までは理性が感情からの死にたいをどうにかしてきたのに、その理性からすらも死にたいと叫んできた。益々どうにもならなくなった。果たして今ある枷は、これから出来る鎖は、何れ程迄に機能してくれるのだろうか。

こんなに長くて、ひたすらにフリックでぽちぽち入力してきただけの文章を、ここまで読んでくれたのは有り難いです。また何か、遺書と題したnoteを書くまでは、新たに投稿しようと思います。

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