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分身の術

 カウンセラーになりたくて、講座をうけたことがある。そのときの参考文献がアメリカの心理学者、カールロジャースの『パーソナリティと行動についての一理論』という本だった。

 彼は「人は実際にあるものではなく、自分が知覚したものに反応し、その知覚するということが、その人にとって実在ということだ」と述べている。つまり、気づくということが、その人にとってものがある、ということだと。分かりやすく言えば、石につまずく人にとって石は存在しないのだ。それなら、もし、この世の中に「私」という存在に気づく人がだれもいなかったとしたら、まわりの人にとって「私」は実在しない、ということになる。

 では、私自身は「私」を知覚しているだろうか。鏡で何百回、何千回と見てきた私の顔、二重まぶたで少しつりあがった目、父ゆずりの高い鼻と大きい口のこの顔が「私」なのだろうか。動かそうと思えば動く、この指が私の指だろうか。ここにいるのは自分と思っている物体で、本当の「私」はここから離れ、どこか遠くから自分を見ているのではないか。考えれば考えるほど、不思議な気分になる。

 他人にも気づかれず、自分自身さえ自分をはっきり知覚できないとすると、「私」はどこにいってしまうのだろう。「実在する」ということが「生」ということなら、「私」はここにいるのに死んでいることになりはしないだろうか。逆に私の存在を大切に思っていてくれる人が大勢いるとすれば、実際の私は死んでしまっても、その人達の中に「私」は実在する、つまり生きていることになる。人の生と死は、もしかしたら人が実在する、しないとは別のことなのかもしれない。そうだとすると、私がもし死の床についても、心安らかでいられる気がする。

 ロジャースは次のようにも言っていた。

「他人にいかに近づいても、その他人の全部が分かることはないが、近づこうとすることがその人を知る最上の方法だ」

 考えてみれば当たり前のことだ。他人に自分のことをすべてわかってもらおうなんて、とても無理だ。逆に他人のことを100パーセントわかろうとしても、これもまた不可能だ。人は実にいろいろな面を持っていて、それらが複雑に混じりあっているものだ。自分のことを内向的だと思っている友人が、他人からズバリ「やっぱりあなたって暗い人ね」と言われるとショックだと言っていた。しかし、私ならそんなふうに言われると、まだまだこの人は私の一面しかわかっていないんだ、と心の中でニヤリとしてしまうだろう。私の存在を知覚するまわりの人達は、それぞれのフィルターを通して私を見ていて、彼らの中の私が少しずつ違っているなんてなかなか面白い。孫悟空が、十本の毛を抜いてふっと吹くと、十人の分身が現れるように、私自身が分け身の術を使ってそれぞれの人の中にもぐりこんでいるような快感がある。

 さて、大事な人のなかにいる私が一番素敵な私であってほしい、と望むのは、心理学から外れてしまう「考察」なのだろうか。

          おわり

(以前書いたものを一部修正したものです。)

明日からは新年、
みなさまのご健康とご多幸をお祈りします。

           チズ

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